小学生だと9人制が多いのだけれど、
私たちのチームは6人制。そして、小学生
ルールに、ピンチサーバーとしてだけコートに
入れるというのがあった。
まだ、3年生になる前、
1~2年生の頃から、大きな
お姉さんと、一緒にサーブの練習をさせて
もらっていたから、少しは出来るようになって
いたのかもしれない。
初めての試合は、
このピンチサーバー。多分、3年生になった
ばかりの頃だと思う。
ピンチサーバーは、今で言うリベロみたいに、
ほかの選手と区別するために、
よだれかけみたいなものを、ユニフォームの上から
着用していた。
で、コートチェンジのときに、
そのよだれかけをしたまま、ネットの下を
くぐったら、アンテナか、何かに、よだれ
かけと、ユニフォームをひっかけて、ビーッて
破いちゃった...。
サーブが入ったのか、
入らなかったのか、もう、忘れてしまったけど、
よだれかけを破っちゃったことは鮮明に
覚えている。なんか、いつも、そんなおバカな
記憶ばっかり残っている...。
同じ学年だった大田香ちゃんと渋江(現・鈴木)
郁子ちゃんとは、このスポーツ
少年団のときから、「仲良し3人組」。この後、
山形四中~山形商業高校まで一緒。
ずっと、バレーをやってた。お父さん同士も、
仲が良かった。
小学校では、一応、私のポジションは
センター。当時は、センターが、エースだった。
でも、同じポジションを続けることはなくて、
全部のポジションを、ひと通りやる。この
頃は、いくちゃんが、一番バレーが
上手だった。
私も、いくちゃんも、小学生の頃は
小さくて、身長は、せいぜい120~130cm
くらい。しかも、私は、やせっぽち。
いくちゃんは、体重がど~んとあって、馬力があった。
そして、かおりちゃんは、セッター。
お父さんは、仲良し3人組に、1ヶ月交代で
キャプテンをやらせたり、ポジションを
変更させたりしていた。ひとりだけを
トップに立たせるとか、同じポジションに固定
することを、絶対にしなかった。
でも、それが、よかったって、
すごく思う。いろんな
経験が出来たし、中学~高校に行っても、
ずっと、仲良しでいられて、今でも、休暇で山形に
帰れば、絶対に会うような、つきあいが
続いている。
それは、小学生のときから
変わっていない。そういう仲間を作れたのも、
このスポーツ少年団だ...。
山形東小は、けっこう県内でも、強豪校だった。
同じ市内の滝山小学校のチームと、
いつも、山形県の優勝を争っていた。
勝ったり、負けたり、まさにライバル校。毎年、
東北小学生バレーボール大会にも、出場していた。
宮城県へも遠征して、試合をすることも
あった。試合で内容が悪いと、よく
ワンマン(コーチと選手が、1対1になって行う
レシーブ練習)を、やらされた。勝ち負け
じゃなくて、試合内容が悪いときには絶対ある。
「みんな、外へ出ろ!」
お父さんが言うと、「あぁ~、ワンマンだ!」
ってわかる。体育館じゃなくて、
土や、砂利だろうが、コンクリートの上だろうが、
どこでもやる。もう、全部のサーフェス
(地面)を、制覇してるね、私は...。
血だらけに
なっちゃうことも、しょっちゅう...。
悔しくて、「ウェ~ン!」って、泣きながらやる。
でも、痛いとか、嫌だからというのと、
ちょっと違う。出来ないことが悔しい。
試合で、内容が悪かったことが、
純粋に悔しいって...。
ワンマンをやりながら思う。だから、
泣きながらも絶対にやめない。しょっちゅう
外で、ワンマンをやってたから、ユニフォームも
ボロボロだった...。
実は、私のジャンプサーブは、小学生の
頃からやっている。お父さんが、何でも
やってごらんって。出来ないと、悔しくて、
また「ウェ~ン!」って泣く。
でも、トライした。
ワンマンも、どんな練習も、
泣いても、泣いても、楽しかった...。
備考:この内容は、
2009-9-3
発行:実業之日本社
著者:高橋みゆき
「シン!」
より紹介しました。