第1章 家族 1
「千津さん。...千津さん、どこ?」
と、八木原康代は、台所を覗き込んで、声をかけた。
いない。
珍しいこともあるものだ。と康代は思った。でも、
...正直な所、ちょっとホッとする。
康代は、ゆうべ揚げ物をして、油で汚れた
レンジを拭いておこう...と思った。でもきっと...、
やっぱり。
レンジは、新品のように光っていた。
いつも、こんな風なのだから、康代は首を振った。
康代は居間へ行った。...居間といっても、
康代の部屋全部を合わせたくらいの広さ
がある。
古い家具の1つひとつが、ずっしりと重くて、
それこそ歴代などよりも、ずっと大きな顔をして
いるのだ...。
康代は、中央のマントルピースの前に、扇状に広がった
ソファの1つに、座ろうとして、ためらった。
今日は、誰もいないのだから、ここで、のんびりしたって
構わない。そうだとも。ここは、私の家
なんだから...。
でも、結局、康代は中央から外れた、
小さな椅子の1つに身を委ねた。
ここの方が、私は落ち着く。...46にもなって、
八木原家に、嫁いで20年にもなるのに、情けない
ような話だが、本当なのだから仕方ない。
康代は、この広さに、どうしても馴染めなかった。
ここへ、初めて足を踏み入れた時から、そう
だったのだ。
康代は、年齢の割には、バランスの取れた体つきを
している。
...普通、これぐらいの年齢に
なると、太って来るか、逆に、ギスギスと痩せた感じに
なるか、どちらかに分かれてしまうものだが、
康代は、少し細めの印象を保ち続けていた...。
顔立ちにも、まだ若さが残っている。
いつも若くて、と、夫の知人の奥さんたちに
言われると、でも康代は、なんだか申し訳ないような
気がして、つい、
「すみません」
と、謝りそうになるのだ...。
でも、このところ康代は、体の具合が
おかしかった。更年期かしら? とも思ったが、
そんな風でもない。
大体の見当はつく...
あまり動いて
無いからなのだ。
もともと、この家の家事は、康代が取り仕切っていた。
...と言うよりは、自分でやっていることが
多かったのだ。
康代は、仕事をしている時の方が、安心していられた。
元々が、平凡な役人の1人娘である。
家の嫁になっても、使用人に任せておかずに、
クルクルと、こまねずみのように働いた。
そうしないといられない...
落ち着かない性格でもあった...。
もっとも、1人っ子の秀一郎が、生まれてからは、
そんな日もなくなったので、大分、家事の量は
減ったけれど、それでも、常に2人ぐらい置いていた
使用人に、細々とした命令をするのは、康代の
仕事だった...。
しかし、秀一郎も、もうすぐ18歳になった。大学
にも入った。
康代は、なんだか、毎日の中に、ポッカリANAが空いた
空白の時間を埋めるために、また、せっせと、料理や
洗濯、掃除に精を出し始めたのだった。
夫の秀(すぐる)は、あまり、いい顔をしなかった。
八木原家の長男の嫁が、手を洗剤で、カサカサにしていては
困るというわけだ。
でも、康代は、気にしなかった...。
ちょうど、2人の使用人が、バタバタと結婚して
辞めていった...。
康代は、1人で家事をこなすには、もう
体力が無くなって来ていることを悟った。でも、1人、
誰か使える子がいれば...。そうすれば、充分に
やっていける。
こうして、雇われることになったのが、
「山中千津」である。
たった3週間。...
そうなのだ。まだ、たった
3週間しか経っていない。
それなのに、千津は、すっかり家の中のことを、
覚えてしまった。
「楽になっていいわね」
と、義理の妹の圭子に言われて、
「ええ...」
と、曖昧に微笑んだものの、実のところ、
康代は、心中、穏やかで無かった...。
この家の中での、康代の存在が、消えて
しまったからだ。
いや、それは、多少、康代の思い込みでもあったが、
実際、あまり目立たず、万事に控えめな康代は、
なにかの置き場所を聞くときぐらいしか、名前を、
呼ばれることは、無かったのだ。
「康代さん、あのときのベルト、どこへやった?」
「康代さん、ハサミは?」
「康代、俺のキーホルダーを知らないか?」
「母さん、僕の手帳見なかった?」
などなど...。
誰もかれもが、康代に、聞いてきた。
と、言っても、この家の中に住んでいる人は、
母親の亮子
...その夫は、10年前に○くなっている
...
長男で康代の夫、秀、そして、子どもの秀一郎。
それから、次女の圭子。
長女の房子は、結婚して家を出ていたが、
それも、色々とあって...。いや、そのことは、また
別として...。
ともかくみんな、康代に聞けば、何がどこに
あるかわかると思っているのだ。そして実際、
康代は、物を片付けて歩くことが好きだった...。
また、八木原家の血統なのか、それとも、
金持ちの習性なのか、みんな持ち物を、あちこちに放り
出しておく。それを片付けるのが康代の仕事で、
だから、康代に聞けば、大抵のことはわかる、という
のは事実だったのである。
それが、このところ、康代の名前が呼ばれることは、
滅多に、無くなった...。
その代わり、誰もが...。
「千津さん、ちょっと...」
「千津さん、悪いけど、お願い」
「ねぇ、千津さん...」
なのだ。
たった3週間で、千津は、康代の占めていた場所を、
すっかり奪ってしまった。
だからこの所、康代はあまり体を動かさない。
したがって、どことなく、体の調子が
おかしいのである。
本当に、康代は、ぼんやりと高い天井を眺め
ながら思った。
...自分は、この年齢まで、何のために
生きて来たのかしら?
康代は、苦笑した。そんなことを、自分が考える日が
あるなんて、思ってもみなかった。
よくTVドラマなんかで、物思いにふけって
ばかりいる人妻が出てくると、どこにあんな、
暇を持て余している奥さんがいるかしら? と馬鹿馬鹿
しくなったものである。
でも、今、自分がその「馬鹿らしい人妻」の役を
演じつつある...。
「...失礼します!」
突然、声を掛けられて、康代は、ギョツとして
立ち止まった。
「千津さん! ああ、びっくりした」
と、胸を押さえる。
「すみません、びっくりさせるつもりじゃなかった
んですけど...」
と、千津は、頭をかいた。
「いいわよ」
と、康代は笑った。
「ちょっと、ぼんやりしてた
ものだから。...なぁに?」
「あの~、セールスマンが、玄関に来てて、
帰らないんですけど...」
と、千津は、困り果てたように言った。
「あら? 門のところで、断らなかったの?」
「それが、セールスマンなんて言わないで、名前を
言ったもんですから、秀一郎さんのお友達
か、誰かと思って。...
声が若かったんです」
「まぁ、そうなの?でも、そういうのは、いつも、
セールスマンが使う手なのよ」
「すいません。本当に、ずるいんだもの...」
と、千津は、カッカしているようだった。
「いいわ。じゃ、私が、追い帰してあげる」
「すいません。以後、気を付けますから...」
と、千津が、頭を下げる。
「いいのよ。あなた、そろそろお買い物でしょ!?
行ってきていいわよ」
「はい。じゃ、お願いします...」
千津は、タッタッと、刻みながら、スリッパの音を
残して立ち去っていく。
康代は、ちょっといい気分で、居間を出ると、
玄関の方へ歩いて行った。
千津に、自分の「居場所」を取られたといっても、
別に康代は、千津を嫌っているわけではない。
ともかく、よく働くし、万事に起用で、こまめに動き、
仕事も丁寧である。
仕事をすることが、楽しくてたまらないらしい。...
今どきの若い子としては、珍しいとしか言い
ようが無かった。
康代としては、35もなるのに、未だに仕事もせず、
結婚もせずに、ブラブラしている圭子
よりも、千津の方に、ずっと好感を持っていた...。
それでも、千津が、なにか苦手なことを、頼んできた
ということが、康代には、嬉しいのである。
玄関へ、やってきた康代」は、ちょっと顔を引き締めた。
相手に、これは、いくら押してもダメだな、と
思わせなくては意味が無いのだ。
亮子も珍しく知人の宅へ、出かけ、圭子は例によって
昼頃、起きて、どこへ行くとも言わずに
ぶらりと、出て行っていた。
1人になると、いつもは、
引っ込みがちな康代も、多少強気になる...。
玄関に、いかにも、セールスマンというグレーの
背広の男が、アタッシュケースを手に立っていた。
どの程度の金持ちなのか、と、値踏みしているところらしく、
ちょうど、康代の方に背を向けて、
気づかなかった。
「...御用でしょうか?」
と、康代は言った。
「あ、奥様でいらっしゃいますか? 突然、お邪魔
いたしまして。私、一流家庭の方々に、それに
ふさわしい百科事典を、お備えいただくように、
お願いして回っているのでございますが...?」
こうい仕事に特有の、早口に、まくしたてるような
喋り方。相手に、答える間を与えまいと
する、押しつけがましい言い方である。
千津のような若い子では、ただ、押しまくられて
しまうだろう。
こういう相手には、ともかく、しゃべらせてしまうに
限る。いずれ、言うことが無くなって
パンフレットを出そうとする。
言葉が、途切れるのを、待つしかない、
だが、セールスマンをやるにしては、少し年齢が
行っていた、50歳ぐらい? いや、もう少し若い
のかも知れないが、髪に多少、白いものが混ざって、
いるので、老けて見えるのかもしれない...。
「内容的には、各界の方々の、ご推薦をいただいて
おりまして...」
最初は、声だった。
どこかで、耳にしたことのある声。
...でも、思い出せない。
「是非、お考えいただきたいのですが、
いかがで、ございましょう?」
質問するときの語尾に、独特のアクセントが付く。
康代の胸が、突然、激しくときめいた!
...まさか! そんなはずはない!
そんなことが...。
「今は、奥様だけで、いらっしゃいますか?」
と、相手は聞いた。
「下山さん 」
自分でも、気づかないうちに、
康代は、そう言っていた...。
つづくかも...
備考:この内容は、
昭和59-5-31
発行:カドカワノベルズ
著者:赤川次郎
「たとえば風が」
より紹介しました。