【心和む景観】
田沢湖畔から、黒森山の山頂にある田沢湖
高原スキー場を経て高度を上げていく。片側
1車線の舗装道路は、冬の降雪によるものか、荒れて
いる箇所が目立つが、適度に緩やかな
コーナーも続きW650なら、適度に楽しめる山道と
言えよう...。
森林の息吹を吸い込みながら、のんびり
上がっていくと、うっそうとした「ブナ」の森林に
覆われる景観へと、周囲の様子が代わっていく...。
宿の看板を頼りに、左に折れると、1kmほどの
砂利道が残してあるのが、いかにも心憎い演出に
感じられる...。
小さな赤沢の渓流に架かる木製の橋を渡り
切ると、あの写真で見た茅葺き宿舎群が
目の前に現れた。すぐ脇には、発電用に造られた
木製の水車が、力強く回り、元気な水音を立てて
いる。
その佇まいは、一幅の水墨画を見る
ようで、期待通りの景観に、思わず心が和んで
くる。夕暮れには、まだ間があるせいか、宿前の
駐車場には、日帰り入浴客たちの、クルマが停
まり、若い女性を含めて多くの人が出入りして
いたが、それも帰り、入湯の時間が終わるまでの
ひと時だった。
バイクを止め、荷物を手に”本陣鶴の湯”
と黒々と書かれた看板の上がった木製の門を
潜り、母屋の敷地に入っていくと、そこは
別世界である。
二代目秋田藩主・佐竹義隆が寛永 15年
(1638年)に湯治へと訪れた時に、警護の武士たち
が詰めたと言われる、茅葺屋根の長屋は、
明治初期に改築されたものの、当時の面影は、
そのままに客室として、今も使われて、今日も
明かりが漏れている。
小砂利が敷かれて、田舎道然とした
通路を挟んで、反対側にも、窓際に
洗濯物が下がった、歴史を感じさせる 2階建ての
木造辻棟が縦に長く続き、何十年も前の世界
にタイムスリップしたような気分だ...。
茅葺きの長屋を抜け、行く手を避けるような、
湯ノ沢川の清流に架かる木橋をトントンと
渡ると、その先に乳白色の湯をたたえる
大きな混浴露天風呂があった。
写真で見た風景そのままである。
折しも夕闇が迫り、外の
脱衣所に下げられたランプの灯りが、オレンジ色
の光を、湯船に投げかけているのが、また風情
があるのではないか...。
予約していた部屋に荷物を置いて、まずは
ゆったりと湯気の立つ、暖かい露天風呂に身を
沈めると、長旅で疲れた身体が、少しずつほぐれ
ていくのがわかる。夕食時になったせいか、
人影も絶え、広い湯船には私 1人、聞こえるの
は小川のせせらぎと虫の音だけだ...。
備考:この内容は、
平成12-10-15
発行:八重洲出版
「motor cyclist」
より紹介しました。