ちょっと、Qちゃん、どこ見てんのよ!
「テレビ」が普及して、映画を見る人が少なくなったというのは本当です。「視聴覚文化」
が盛大におもむき、本を読む人が少なくなるだろう、というのは、どうも本当らしく
ありません。・・・ということは、およそ常識からも察せられるでしょう。
そもそも「テレビ」の最大の作用は、出好きな人々を家庭に足止めすることです。「僕は
家へ帰る」と、一昔前に言えば、誰でも「山の神」か、もし、それが、青少年ならば、良家の
「しつけ」のきびしさを考えさせたものです。いまでは、良家というものが、あるのかないのか、はっきり
せず、「山の神」の実態は、変わらないとしても、少なくとも、その言葉は流行りません。「ぼくは
帰る」という知人があれば、「野球」か「相撲」の番組を、どうしても家に帰って見たいのだろうと
想像するのが、普通でしょう。現に、私は、最近、信仰の厚いある婦人と、お寺回りをしたことが
あります。ところが、ちょうど、その日は、相撲の初日であり、夕方にはその「テレビ」放送があるはず
でした。町から遠く離れた寺をめぐりながら、にわかに老婦人は、「私は、先に家に帰りましょう」
と言われました。野球は、または、相撲は、信仰よりも強し、などという駄洒落ではありません。
私が言いたいのは、「テレビ」が人を自宅へ送り帰す作用、すなわち、その反外出作用とでも言う
べきものの、それほど強いカということです。映画は外で見るものだが、本は自宅で読むもので
す。強力な反外出作用は、映画に不利で、読書に有利なはずでしょう。読書を妨げるものがある
とすれば、それは、外出を妨げるくらい「テレビ」ではなく、外出をすすめるゴルフや自動車や飲み屋や
およそ、そういう設備万端だろうと思われます・・・。
娯楽としての「テレビ」と映画とは、大変よく似ています。見るほうが受け身で、座って
いれば画面の方が、こちらを適当に料理してくれます。それほど似ているから、どちらか
一方でたくさんだという考えのおこるのも、むしろ、当然の事でしょう。ところが、本を読むのには、
いくらか、読む側に努力がいります。また、読む速さをこちらで加減することもできるし、つまらぬ
ところを省くことも出来る。面白いところを2度読みすることも出来るし、昔の人のとったように
しばらく巷をおいて長嘆息することもできます。そういう本を、読みながら出来ることは、映画
や「テレビ」を見物しながらは、どうしても出来ません。要するに、本を読むときのほうが、読む
側の自由が大きい。自分の意志や努力で決めることができる範囲が広い。つまり態度が積極的
だということになるでしょう。「きょうは疲れたから映画でも見ようか?」とは言いますが、「疲れ
たから本でも読もうか?」と言う人がいないのは、そのためであり、そもそも読書法ということは
成り立っても、映画・「テレビ」見物法ということが意味をなさないのも、そのためです。一方
は、受け身の楽しみ。他方は、意識的なたのしみで、受け身のたのしみが増えるということは、
必ずしも、積極的なたのしみを、求めなくなると、言うことではありません。娯楽の性質が
全く違うから、いわゆる視聴覚「文化」、または「娯楽」は、読書の楽しみを妨げるものでは
ないでしょう。
ちょっと、Qちゃん、桜のほうがきれいだって、どういうこと!
しかし、「テレビ」には、娯楽番組のほかに、いくらか、知的好奇心を刺激する番組もあります。
たとえば、憲法についての座談会とか、ダム建設工事現場の写真とか、いったものが「憲法」や「ダム
建設」に関する好奇心を刺激します。しかし、その好奇心を十分に満足させるようなまとまった
知識を与えてくれることは、ほとんどあリません。そこで、「憲法」に関し、また、「ダム建設」
に関して、まとまった知識を読書によって得ようという意欲がおこっても、ふしぎではない。
そうなれば「テレビ」は、読書を妨げないばかりでなく、むしろ助長するように働くという
ことになりそう。少なくとも、そういう一面がありうると思います。
しかし、そもそも読書は、「テレビ」・映画の見物に似ていないとしても、どういうほかの人間
の行為に、似ているのでしょうか・・・?
備考:この内容は、昭和55-11-15
発行:光文社
著者:加藤周一
定価 550円
「頭の回転をよくする読書術」
より紹介しました・・・。