コロッセオ
妻の怒り
ローマは遺跡の町です。何気ない大理石の建物にも歴史の重みを感じます。
崩れかけのコロッセオ、広大なカラカラ浴場跡、今も堂々たる貫禄のサンピエトロ寺院。
私達はトレヴィの泉で後ろ向きになってコインを投げ入れました。映画のオードリー・
ヘップバーンみたいに、サンタマリア・インコスメディアン教会の真実の口に手を突っ込み、
「あっ、抜けない!」
と言ったりしました。スペイン広場では座り込んで、ジェラードを食べたりも
しました。
正に「ローマの休日」でした。
スイスでの反省もあって、あなたはガイドさんを頼んでくれましたね。中年の
日本人女性でした。この人、てきぱきしているのはいいのですが、言葉が乱暴です。
「あれ見てごらん」
「それ貸しな」
「私に付いてきな」
と、こんな調子です。あなたは彼女にあだ名を付けました。
”ガラッパチーノ”です。
お昼時になり、ガラッパチーノが言いました。
「お昼何食べる。言ってみな」
私達は洋食に少々食べ過ぎ気味でしたので、日本食がいいとリクエストしました。
ガラッパチーノは、とある和食の店に案内してくれました。私たちはきつねうどんを頼みました。
「ガイドさんもいっしょに食べましょう。何がいいですか?」
と言うと、
「私は寿司定食でいいわ」
寿司定食はその店のお昼のメニューで一番高い料理でした。キツネウドンの3倍
位します。しかも「でいいわ」です。私たちは彼女のあだ名を
”アツカマルチェ”
に変えることにしました。
ローマの次の予定はミラノです。ミラノへの移動は当然飛行機ですので、私達は
空港に向かいました。私は指示された登場ゲート前の椅子にとりあえず座ったのですが、
あなたは黙ってどこかへ行ってしまいました。一言の
言葉をかけるでもなく、私を置いて消えてしまったのです。
「またどこかで一人紅茶を飲んでるんやろか?
それとも、私をこんなとこに置き去りにして、日本へ
帰れないようにする来なんやろか?」
あなたは帰ってきません。
「どうしよう。国際スパイ団に誘拐されて、
消されてしまったらどうしよう!」
時間は刻々と過ぎていきますが、あなたの姿は
全く見えません。
「チャンチャンチャーン、チャンチャンチャ~ン」火曜サスペンス劇場の
音楽が再び流れてきます。
私の不安感は破裂しそうです。
その時です。
「恵美子、ここ、ここ。もう乗るよ」
あなたが登場ゲートの列の中から声をかけたのです。
「おい! もっと早よ声かけんかい! 一人で旅行してるのとちゃうんやで!
私を誰やと思っとるねん!
私は、私は・・・私は上沼ガラッパチーノです」
夫の言い分
大学1年生の時、英会話を習いに行った。芦屋にある「セイドー」という学校で、
外人の先生一人に生徒が二人。校内ではすべて英語で話さなければならない。ここで英語が
しゃべれるようになったわけではないが、外国人にびびらなくなり、英語を使うのに
照れなくなったというメリットは大きい。
その後、海外出張や海外旅行に行くたびに度胸がつき、英語に慣れた。君から
見れば僕はペラペラのように感じるかもしれないが、実はかなりでたらめで、いいかげん
なものなんだ。いつも度胸イングリッシュの限界を感じながら、いっぱい
いっぱいで旅をしている。
あの時の空港でもそうだった。登場ゲートへ行くと、電光掲示板はミラノではなく
ナポリ行きと出ている。便名も違う。係員に聞くと、ここはナポリ行きでミラノ行き
は別のゲートだと言う。いや、そう言ったと思ったのだが、なにしろ度胸イングリッシュだ。
正しく解釈できたのか不安だった。その瞬間僕は、係員がミラノ行きと
言ったと思ったゲートに確認のため走りだしていた。
君のことを忘れていたわけではないのだが、時間が無かった。君は椅子に座って
いるので大丈夫だと思っていたのだが、まさか国際スパイ団に誘拐され、消される
危機にあるとは考えなかった。
不安な思いをさせたことはあやまります。ごめんなさい。
でも、火曜サスペンスの音楽は聞こえませんでした。ガイドを付けた旅は
実に楽で安心なものだったので、少し余裕を取り戻せたのです。それに、旅にひとつ
楽しみが増えました。ガイドさんの人となりをいじったり、あだ名を付けたりする
楽しみが・・・。
備考:この内容は、2011年8月10日発行
上沼恵美子、上沼真平著 「犬も食わない」より紹介しました。