あと2年で結婚20年となるその頃、二人は20周年には何かやろうよ。
と考えるようになっていた。思えばこの結婚、よく続いたものだ。
「すべてはこの僕の寛容と忍耐のおかげだ」と夫は思い、
「すべては私のガンバリの賜物よ」と妻は信じていた。
二人ともしみじみと結婚20周年は
自分へのごほうびであるべきと考えていた。
ところが、具体的なプランが出てこない。あーだ、こうだと考えた末、
長期の海外旅行に行くことにした。そうなるとすぐ動きたくなるのが
この夫婦。
「あと2年、待つ必要があるのだろうか?」
「そうよそうよ」
と、その年にもう行くことにしてしまった。夫は、すでに現場を
離れ管理職になっていたので、強権を発動し、妻は週6本のラジオ、テレビの
レギュラー番組を強引に調整しまくって2週間の休暇をひねり出した。
行く先はヨーロッパだ。
まず、スイスのチューリッヒに付き、スイスアルプスを巡る。
その後イタリアに入り、ローマ・ミラノ・ベネチア。そこからオリエント急行
に乗ってロンドン。20周年のごほうびは楽しく、しみじみと想い出に
残る旅になるはずだった。
ところが、こんな風が待ち受けているなんて・・・。
妻の怒り
生まれて初めて飛行機のファーストクラスに乗りました。大阪からチューリッヒまで
のスイス航空です。広くてフワフワの座席がリクライニングボタンを押すと
するすると伸び、真っ平らになるのです。フルフラットと言うのだそうですが、まるでホテルの
ベッドのようです。
パジャマも全員に配られます。黄色と白のスウェットスーツ。ファーストクラス
全員がそのパジャマに着替えて食事を待ちます。まるで上品な囚人です。
前菜にキャビアが出ました。一人ひと瓶まるまるです。ワインも飲み放題です。
肉も食べ放題。魚も食べ放題。アイスクリームも舐め放題、私は食べ過ぎて、
トイレに行き放題。
チューリッヒの空港にはホテルのスタッフが大型のリムジンで迎えに来てくれて
いました。次の日の朝、あなたは興奮した口調で言いました。
「おい恵美子、ゴルフしよう。ホテルの周りはゴルフ場だぜ」
私は始めたばかりで、下手っぴいです。ウェアーも用具も持って来て
いません。あなたの迫力に押されるようにして、いやいやゴルフ場に出たのです。ところが、
ゴルフ場にはプレーしている人が前にも後ろにも誰もいません。白い雪を冠った山々が
遠くに見えるだけで、全く無人のゴルフ場。私はのびのびとプレーし、ゴルフを
本当に楽しみました。
「あなたに旅行のプランを任せて正解だったわ。
あなたは旅の天才やね?」
と、ここまでは思ったのですよ。
ところがどっこい、この後のあなたはレンタカーを借りると、私に地図を渡して
道案内をしろと言うのです。えっ、スイスの地図?大阪の地図も見たこと無いのに・・・。
私達は高速道路に上がりました。何本も車線があり、クルクルと回っているうちに、
出口を降りるとそこはレンタカー屋の前でした。二人は大笑いをしました。
戻ってるやんか!
心を入れ直して高速道路に上がりました。ぐるぐる回って降りたところは再び
レンタカー屋の前。
そんなことが4回程続き、私はもうくたくたです。
次の日、登山電車でアルプスに登ることになりました。ルートがかなり複雑なので、
私は大丈夫かなと心配したのですが、あなたは、
「旅のプロセスが困難であればあるほど、旅は楽しいもんさ。二人でそれを
楽しもうよ」
昨日のことを思い出したら、楽しめるか!
何回乗り物を乗り換えたか覚えていません。なんとか頂上にたどり着いたのですが、
吹雪で何も見えません。
「せっかくここまで来たんだから、展望台へ
出て見ようよ」
と、あなたは言います。え?展望台に出る?
そんなムチャクチャな。体が飛ばされるような強風と寒さです。
こんな日によく登ってきたなと従業員もキョトンと
しています。顔が痛くて、目も開けられず、涙が流れ、
鼻水が風に飛ばされ、体が震えて、手足が固まり、
息が出来なくなりました。
私は叫びました。
「寒いよう! 早よ帰ろう!」
返事がありません。
私はドキリとしました。
この強風であなたが飛ばされたかと思ったのです。
私は焦りました。探しました。神様どうか、
あの人を助けてください。あなたはいました。
展望レストランの中で紅茶を飲んでいました。
私は、私も展望レストランへ行こうと思い、
鉄の扉を開けようとしましたがびくともしません。押しても引いても扉が開かないのです。
「何で、何で、開かへんの? どないなってるのよ?」
その時、ふと、私の頭に浮かんだのが、恐ろしい想像でした。あの人が中から
鍵をかけたなぁ。
「チャチャンチャーン チャチャンチャーン」
火曜サスペンス劇場の音楽が流れました。あーそうか。わかった。ここまで強引に
連れてきたのは、私を殺す為だったのだ。ここで私を抹殺するつもりだったんだ。
後であなたが鍵をかけたのではなく、風圧で扉が開きにくくなっていたと
わかりましたが、その時は必死でした。
展望台で震えている妻の姿を見ながら、
飲んだ紅茶は美味しかったでしょうね。
覚えとけ!
つづくかも?
備考:この内容は、2011年8月10日発行
上沼恵美子、上沼真平著 「犬も食わない」より紹介しました。