翌日は二日酔いで頭が痛く、とても三角関数や間接話法どころではなかった。午前中は
教科書の影で吐き気をこらえて過ごし、4時間目の体育を乗り切ると、ようやく人心地が
ついた。弁当は中庭でアキと一緒に食べた。噴水の水しぶきを見ていると、また気分が悪く
なりそうなので、ベンチを動かして池に背を向けて座るようにした。ぼくは彼女に、昨夜
祖父から聞いたばかりの話をした。
「じゃあ朔ちゃんのおじいさんは、ずっとその人のことを思い続けていたのね」アキは
心なしか目を潤ませて言った。
「まあそうなんだろうね」ぼくはやや複雑な心境でうなずいた。「諦めようとはしたんだけど、
忘れられなかったらしい」
「そして相手の人も、朔ちゃんのおじいさんのことが忘れられなかった」
「異常だろう?」
「どうして?」
「どうしてって、半世紀だぜ。種の進化だって起こりかねない」
「そんなに長い間、お互いに一人の人のことを思い続けていられるなんて素敵じゃ
ない」
アキはほとんど心ここにあらずといった風情だ。
「すべての生物は年をとるんだよ。生殖細胞以外の細胞は老化を免れない。アキちゃんの
顔にもだんだんシワが増えていく」
「何が言いたいの?」
「知り合ったときは20歳くらいでも、50年も経てば70になっちゃう」
「だから?」
「だからって・・・70のおばあさんのことを一途に思い続けるなんて、不気味じゃない
か」
「わたしは素敵なことだと思うけど」アキは突き放すように言った。なんだかちょっと
怒っているみたいだ。
「それで、ときどきホテルなんかにも行くわけ!?」
「よしなさいよ」アキは険しい眼でぼくをにらんだ。
「おじいちゃんてそういうことやりかねないんだ」
「朔ちゃんでしょう、そういうことやりかねないのは?」
「いや、違うって」
「違わない」
議論はとうとう物別れに終わり、つづきは午後の理科の授業に持ち越されることに
なった。生物の教師が、人間のDNAの98.4%はチンパンジーと同じであると
いう話をしていた。両者の遺伝子の違いは、チンパンジーとゴリラの遺伝子の違いよりも
小さい。だからチンパンジーに一番近いのは、ゴリラではなく、われわれ人間である。
そんな話に、クラス中が笑った。何がおかしいんだ、馬鹿野郎。
ぼくとアキは教室の後ろの方に座って、相変わらず祖父たちのことについて話
つづけていた。
「こういうのって、やっぱり不倫になるのかな?」ぼくは重大な疑問を提起した。
「純愛にきまってるじゃない」アキは即座に反論した。
「でもおじいちゃんにも相手の人にも、妻や夫がいたんだぜ」
彼女はしばらく考え込んで、
「奥さんや旦那さんから見ると不倫だけど、二人にとって
は純愛なのよ」
「そういうふうに立場によって、不倫になったり純愛になったりするのかい?」
「基準が違うんだと思うわ」
「どんなふうに?」
「不倫というのは、要するにその社会でしか通用しない概念でしょう。時代によっても
違うし、一夫多妻制の社会とかだと、また違ってくるわけだから、でも50年も一人の人を
思い続けるってことは、文化や歴史を越えたことだと思うわ」
「種も超える?」
「えっ?」
「チンパンジーも一匹のメスのことを、50年思い続けたりするのかな?」
「さあ、チンパンジーのことはわからないけど・・・」
「つまり不倫よりも純愛の方が偉いわけだ」
「偉いっていうのとは、ちょっと違うかな」
話が佳境に入ってきたところで、、「そこの二人、さっきから何を話しているんだ!」
という教師の声が飛んできた。罰として、教室の後ろに立たされることになった。権力だ、
とぼくは思った。人間とチンパンジーの交配は可能かも知れないという話は許され、歳月を
越えた男女の恋愛の話は許されないなんて・・・。ぼくたちは立たされたまま、小声で祖父たちの
話を続けた。
「あの世を信じる?」
「どうして?」
「おじいちゃんは好きな人と、あの世で一緒になろうって誓い合ったわけだから」
アキはしばらく考えて、「わたしは信じないな」と言った。
「毎日寝る前に、お祈りしてるんだろう?」
「神様は信じるの」彼女はきっぱりと答えた。
「神様とあの世と、どう違う訳?」
「あの世って、この世の都合で作り出されたもののような気がしない?」
ぼくはそれについてちょっと考えた。
「するといおじいちゃんたちは、あの世でも一緒になれないね?」
「あくまでわたしが信じる信じないの話よ」アキは弁解するように言った。
「おじいさんとその人には、また別の考え方があったんでしょうから・・・」
「神様だって、この世の都合で作り出された可能性はあるよ。神頼みなんて言葉もある
くらいだから」
「それはきっとわたしの神様とは違うんだわ」
「神様は何人もいるのかい?それとも何種類?」
「天国を畏(おそ)れることはないけど、神様を畏れることってあるでしょう。そういう気持ちを
抱かせる神様に対して、わたしは毎晩お祈りしているの」
「どうか天罰を下さないでくださいって?」
ぼくたちはついに廊下に出された。廊下でも、懲りずに天国や神様の話をしている
うちに授業が終わり、二人とも職員室に呼ばれて、生物の教師とクラス担任から、それぞれ
油を絞られた。仲のいいのは結構だが、授業中はもっと身を入れて先生の話を聞く
ようにと・・・。
正門を出たときには夕方近くになっていた。ぼくたちは黙って大名庭園の方へ歩いて
いった。途中にグラウンドと歴史博物館がある。城下町という名前の喫茶店もある。一度、
学校の帰りに入ったことがあるが、コーヒーがまずいので二度と行かない。古い造り酒屋
の前を過ぎて、街中を流れる小さな川のほとりまで来た。橋を渡ったところで、ようやく
アキが口を開いた。
「でも結局、二人は一緒になることが出来なかったのね?」
彼女は話のつづきに戻るような口調で言った。
「50年も待ったのに・・・」
「相手の旦那が死んだら、一緒になるつもりだったらしいよ」ぼくもやはり祖父たち
のことを考えていた。「おばあちゃんが無くなってから、おじいちゃんの方はずっと一人
だったから」
「どのくらい?」
「もう10年になるかな?でも相手の人のところは、旦那さんより当人の方が先に死んでしまう
んだから、うまくいかないもんだ」
「なんだか悲しい話ね」
「滑稽な話という気もするけど」
会話が途切れた。ぼくたちはいつもよりもうつむき加減に歩き続けた。八百屋と畳屋
の前を過ぎて、床屋の角を曲がると、アキの家はもうすぐ近くだ。
「朔ちゃん、手伝ってあげなさいよ」残りの道のりが少なくなってきたことを意識する
ように、彼女は言った。
「気安く言うけど、人の家の墓を暴くんだぜ」
「ちょっと怖い?」
「ちょっとどころの騒ぎじゃないよ」
「朔ちゃんて、そういうの苦手だもんね」
笑っている。
「何がそんなに嬉しいわけ?」
「いえ、別に・・・」
とうとう彼女の家が見えてきた。ぼくはその手前の道を右に折れて、国道を渡って自分
の家に帰る。残りはあと50mくらいだ。どちらからともなく歩調を緩めて、
立ち話をする格好になった。
「こういうのって、やっぱり犯罪だよな?」とぼくが言うと、
「そうなの?」彼女は当惑したように顔を上げた。
「当たり前じゃないか」
「どういう罪になるのかしら?」
「もちろん性犯罪さ」
「嘘ばっかり」
彼女が笑うと肩にかかった髪が揺れて、ブラウスの白さを際立たせた。長く伸びた二人
の影が、半分より右は折れ曲がって、少し先のブロック塀に映っていた。
「とにかく見つかれば停学だな」
「そのときは遊びにいくから」
力づけるつもりだったのだろうか。
「気楽だね、あくまできみは」 ぼくはため息まじりにつぶやいた・・・。
つづく・・・
備考:この内容は、2004年6月20日発行 小学館 片山恭一著
「世界の中心で、愛をさけぶ」より紹介しました。
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