「幸せの黄色いビートル」 田中孝博
「奥さん、これ下取りできないっすよ。廃車にするしか・・・。そうすっと、逆に金かかっちゃう
んですけど・・・」
シミだらけの白いツナギを着た兄ちゃんが、汗をぬぐいながらいった。ソバカスの浮いた頬、
ピアスだらけの左耳、茶髪に赤いキャップ。私と大して歳も違わなさそうな彼の表情は、真剣
そのものだった。
・・・お金かかるのは痛いなぁ。
正直、そう思った。
だからって、一台分しかないガレージを、使わない車で埋めておくわけにもいかない。私は
小さくため息をついてから、不安げにこちらを見つめている兄ちゃんにいった。
「わかりました。この車は引き取って・・・廃車にしてください。お金は払いますから」
兄ちゃんは素早く頭を下げ、「じゃ、今週末に引き取りに来ます」といって、帰っていった。
派手にエンジンをふかしながら走り去る軽トラックを見送りながら、私は空を見上げる。
5月の空は青く透明だった。
この黄色いフォルクスワーゲンの旧式「ビートル」は、父さんの愛車だ。
カブトムシのような丸っこい格好をしたこの車が初めてうちに来たときのことを、今でも
思い出す。
私は、まだ、小学校の2年生か、3年生か・・・。
そうそう、今日みたいにきれいな五月晴れの日だったっけ。
・・・1時くらいに着くから、家の前で待っててくれ。
父さんから電話がかかってきたのだ。
私と母さんがクスクス笑いながら門のところで待っていたら、この車がゆっくり走ってきた。
田舎の小さな住宅街には、あまりにも突拍子もない黄色いクルマ。近所のトラックや乗用車には
ありえない変わったフォルム・・・。
そのときのハンドルを握った父さんの晴れやかな表情。あとにも先にも、あんな父さんは
見たことがない。
ガレージに車を入れて今に帰ってきた父さんは、フォルクスワーゲンって会社はどうこう
だの、リアエンジンだの、空冷式だの、デザインがどうのこうのと、よくわからないウンチクをまく
仕立てた。物静かで感情の薄い父さんが、顔を真っ赤にして喜んでいた。
その父さんも5年前に亡くなって、私も新しいクルマを買うことにした。
「そろそろ必要じゃないのか?」と、夫が気を遣ってくれたのだ。
だから、この車は処分することになった。
家に入って居間のソファに落ち着いてひと息つく。と、奥の間から音が聞こえる。
私は、身体を起して奥の間に向かった
。
ふすまを開くと、何をしているのか、母さんがタンスや押し入れをひっくり返していた。
「・・・母さん、あの車ね、やっぱり廃車にするしかないんだって」
父さんがいなくなってから、なんだか小さくなってしまった母さんの背中にいう。
「・・・そう」
「下取り代どころか、処分するのにお金がかかるんだって」
「・・・そうなの」
「うん」
母さんは背伸びをして押し入れの奥から段ボール箱を引っ張り出した。手伝おうとすると、
母さんは柔らかく押しとどめて首を振った。私は出しかけた手を引っ込めて肩をすくめる。
「でも、しょうがないよね。もう1年以上乗っていないし、動くかどうかも、わからないもん」
「・・・そうね」
母さんはこちらを振り向きもせずに段ボール箱の中を調べていた。そんな興味のなさそうな
態度に、私はちょっといらだちを覚える。
最近の母さんは、いつもこんな感じなのだ。しょっちゅう探し物ばかり。話しかけても上の
空で、ボンヤリすることが多くて、少し心配。
・・・まあとにかく、報告だけはしたんだし・・・。
私は居間のソファに座った。奥の間からは、ガタガタ、ごそごそという音が長い間、
聞こえていた。
昼を少し回って、窓から差し込む陽が強くなった。遠くから風に乗って小学校のチャイムの
音が聞こえてくる。
・・・母さん、まだゴソゴソやってるのかな。まったくもう。
空腹に耐えきれなくなって、私は思い体を起こして台所に向かう。
狭い台所に入ると、母さんがせわしなく動き回っていた。
菜箸を操り、なべを動かし、包丁で音を立て、右へ左へと小気味よく料理をしている。
忙しそうに動き回る背中に、声をかけるのをためらってしまう。
ふと見ると、キッチンテーブルの上に小さなお弁当が二つ並んでいた。
海苔が巻かれたおにぎりが二つ、唐揚げ、卵焼き、それにウィンナとアルミホイルの器に
コールスローとミニトマトも入っている。
「・・・どこかに行くの?」
話しかけると、母さんが振り返った。
手には黄色と赤のチェックのナプキンが握られていて、いたずらな笑顔が浮かんでいた。
「ええ。・・・あなたの分もあるのよ」
「・・・え?」
母さんは手早くお弁当のふたを閉じると、丁寧にナプキンで包んだ。
「さ、できた。あなたもいらっしゃい」
赤い方のお弁当を突き出して私に笑顔を向ける。つい、反射的にお弁当を受け取ってしまう。
母さんはもうひとつの黄色い方をひょいとつかんで、台所をさっさと出て行った。
「ちょっと・・・母さん、どこに行くのよ!」
まだ温かいお弁当を両手で抱えて、母さんの後を追った。
外に出ると、太陽の光が鋭くて思わず眼を細めてしまう。生えてきたばかりの芝生や生垣
の緑がみずみずしかった。
母さんはサンダルをひっかけて空を見上げたり、庭を見回しながらガレージへとぶらぶら
歩いて行った。
・・・まさか、あのポンコツでピクニックに行こうなんていうんじゃないでしょうね?
私はわけもわからず。とにかく母さんのあとをついていく。
母さんはトタン板の小さなガレージに入っていった。
薄暗いガレージの中に入ると、あちこちの隙間から差し込んだ陽に、黄色いビートルが
キラキラ光っていた。
母さんは車の屋根のところを少し撫でてから、後部のドアを開け、車内に潜り込んだ。
「・・・ちょっと、何やってるの?」
「ほら、あなたもいらっしゃい」
母さんが後ろ座席から手招きする。なんだかうれしそう。
私も体を折り曲げてドアをくぐった。狭い後ろ座席に体をおさめてひと息つく。
・・・何なの、もう。
口から文句が飛び出る前に、母さんが穏やかに笑いかけてきた。
「覚えてる? あなた、お父さんの後ろの席に座るの、好きだったわね。だから、あなたが今、
座っているところが私の指定席だったのよ」
私はちょっと意表を突かれて、あらためて車内を見回す。
シートの皮やガソリンやほこりの混ざった独特の匂いが漂う車内、丸みのあるフォルムの
せいでちょっと狭苦しい天井、フロントウィンドウ越しに広がるボンネット。
・・・ああ、そうだった。
私は母さんに向き直って笑った。
「・・・ね、ちょっと席をかわってくれない?」
うなずいた母さんは、外に出ると、ゆっくりビートルを半周して逆側のドアを開いた。私は
運転席側のシートへ身体をずらす。
狭くて小さなビートルがぎしぎしと揺れた。
ようやく二人の席を交換すると、目の前に見慣れた景色があった。
「・・・うわ、なつかしい」
運転席のシートに手をかけて体を前に乗り出した。
つづく・・・
備考:この内容は、2009年9月11日発行 リンダブックス編集部 「99のなみだ・花」
田中孝博著 「幸せの黄色いビートル」より紹介しました。