上野駅のコンビニに入って、おにぎりとペットボトルのお茶を買った。
お母さんが会計に並んでいる間、私はレジ横のコーナーを見つめていた。そこには、
東京限定のキティちゃんグッズが並んでいた。そのひとつ、東京タワーの横にキティちゃんが立って
いるチャームがついたシャーペンに目が止まる。きらきらしていて、すごくかわいい。
わたしの目の前で、お母さんが手を伸ばし、そのシャーペンを取った。
「東京の友達も、たくさんの思い出も、ずっと、なつみを応援しているよ。もちろん、
お母さんも、きっとお父さんも・・・」
店の外、お母さんはシャーペンを私に手渡しながら言った。そうしてお母さんはホームを
指し、また歩き始めた。
お母さんは大学を卒業してすぐ結婚して私を産んだ。
「お父さん、いつも具合悪そうだから、なんか放って置けなかったのよ」
いつかお母さんが皿洗いをしながら、笑って言ったことがある。
私もお父さんに似て、身体が弱かった。小児喘息で、春と秋の季節の変わり目には必ず10日は
学校を休んだし、雨に濡れたり、汗をかいたままにしたりしただけで、風をこじらせた。
お母さんは、そのたびに私に付き添って看病してくれた。
私が具合が悪くなって寝込むと、お母さんはいっつも特製のおかゆを作ってくれた。刻んだ
カリカリの梅が入った、ほんのりピンク色のおかゆ。寝込むのは苦しかったけど、そのおかゆを
食べて、お母さんに甘えるのは嬉しかった。
いや、お母さんは私が風邪を引いていなくたって、いつも優しかった。勉強が遅れそうに
なったときは、ドリルに付き合ってくれた。運動会のゼッケンも、裁縫は苦手なのに丁寧に丁寧に
作ってくれた。ふざけて友だちに怪我をさせてしまった私と一緒に、謝りに行ってくれた
こともある。
お父さんの身体は、だんだん悪くなってきて、お母さんだって大変だったと思うのに、私は
お母さんの悲しい顔を見たことがなかった。お母さんは私の自慢だった。それを知っている
のか偶然か、お母さんもよく言った。
「なつみは、自慢の娘だから」
そう言われると、くすぐったいようで、でも嬉しかった。
この4月に私は中学に進学した。
お母さんの苦労もわかってきて、これから私もお母さんと
一緒に、お父さんを支えようと思っていた。思ったばっかりだったのに・・・。
夏休みが始まってすぐ、お父さんの様態が急変した。そしてそのまま逝ってしまった。
そのとき私は初めて、それも一瞬だけ、お母さんの悲しい顔を見た。
お母さんから引越しの話をされたのは、それから1週間後のことだった。
中学校には、小学校からの友達もたくさんいるし、一学期の間に新しい友達もできた。学級
委員にも選ばれたし、好きな人だっていた。だから、このままみんなに挨拶もできずに
さよならをするのはつらかった。
でも、私は、黙ってうなずいた。
お母さんは言わなかったけれど、私はわかっていた。いまの賃貸マンションに住み続ける
のは、経済的にも苦しい。お母さんの田舎に帰れば、住むところはあるし、お母さんも仕事に
就きやすい。それに、なにより心強いはずだ。
一瞬だけ見た、お母さんの悲しい顔が忘れられなかった。
そして思った。私は、これからもお母さんの自慢の娘でいようって。お父さんを支えられ
なかった分、お母さんを支えようって・・・。
上野駅を歩く人はみな、何かに追われているように足早に、私をどんどん追い越していく。
私も必死に歩くけど、どこを歩いているのかもよく分からない。今の状況は、この1ヶ月の
私そのものだ。
押さえつけたい気持ちが、またあふれそうになる。じわりと、まぶたが熱くなった。
でも、泣いちゃいけない。
「なつみ、大丈夫?」
お母さんの声に、私は首を振った。
「目にゴミが入った」
ぎゅっと目を閉じて、涙をしまい込む。
お母さんの前では、絶対、泣いちゃいけない。そう決めたのだ。自慢の娘でいるために。
買ってもらったばかりのキティちゃんのシャーペンを握り締めると、不思議と本当に力が
湧いてくるようだった。
担任の先生に連れられて、新しい学校の1年1組の教室の前に立った。人見知りはしないし、
いつも気づくと友達は多かった。だから平気だと思っていたのに、なぜか足が震えている。
「スマイル、スマーイル」
今朝のお母さんの言葉を思い出す。転校は第一印象が大切なのだと、笑顔の特訓に
付き合わされた。イーっと歯を見せて笑ってみせるお母さんの顔の方が、よっぽどぎこちなくて、私は
すぐに鏡の前を離れた。でもちゃんと練習しておけばよかった。今、私はちゃんと印象の
いい笑顔ができているだろうか?
先生に続いて教室の前に立つ。ざわめきが止んで訪れた静けさの中で、自分の心臓の音だけが
反響して聞こえてきた。
「手塚なつみです。よろしくおねがいします」
ようやくそれだけ言って、頭を下げた。瞬間、また、静けさが訪れた。
すると、一人の大きな拍手が教室に響いた。顔を上げると、髪の長い少女が、教室の後方の
席で、手を叩いていた。それに他のクラスメイトの拍手も続く。
私は、そのロングヘアの少女のさらに後ろの席になった。その子は、振り返り私に手を
差し出した。
「よろしく」
にっと笑ったその子の笑顔は、私がいくら鏡の前で練習しても叶わないと思うほど、明るく
てハツラツとしていた。その手を握ったら、ほっとして力が抜けた。
その子は 利佳子 と名乗った。
2日目から、午後の授業が始まった。東京は給食だけど、この学校はお弁当だった。
みな仲のいい友達同士で集まって食べる。どうしようかと戸惑った私に、声をかけてくれたのも
利佳子だった。
利佳子とお弁当を食べる女子は、6人だった。みんな声が大きくて、制服のスカートが短い。
すぐに、このクラスで一番目立つ、リーダー的なグループなのだとわかった。なにも
知らなかったのに、そんなグループに入れてラッキーだ。
「なつみって、東京から来たんでしょ?」
利佳子が窓際に肩肘をつきながら言う。私は控えめにうなずいた。
すると、周りの女子からも、東京に関する質問がぽんぽん飛んできた。私はためらいがちに
言った。
「いや、東京と言っても、私のとこは冴えない住宅街だったし・・・。私も
渋谷とか行ったら、緊張してたし・・・」
「な~んだ」
1人がつまらなそうに口を尖らせる。
「だから言ってんじゃん。東京なんて、うちらが勝手に憧れてるだけだって」
利佳子が救いの手を差し伸べてくれた。その顔は満足げだった。
「そう、実際は汚いし、そんないいとこじゃないよ」
私が言うと、みんなも納得したようだ。
「そうだよね」
なんてそれぞれ口にして、いつの
間にか話題は、昨日のお笑い番組に移っていく。
利佳子が、ちらりとこっちをむいてうなずいた。私もうなずき返した。仲間に入れた
気がした。
でも、それはわたしの思い過ごしだった・・・。
たった1週間後。わたしのペンケースからシャーペンが無くなった。東京タワーと並ぶキティ
ちゃんのチャームが揺れる、あのシャーペン。昼休み、1人で学校中を探し回った。教室の隅、
2時間目に行った音楽室、廊下、トイレ。校庭に出ようと覗いた下駄箱でようやく見つけた
のは、きらきらしたシャーペンの破片と、キティちゃんがはがされた東京タワーのチャーム
だった。
ほんの小さないたずらのつもりだったのかもしれない。でも私は許せなかった。だって、
それはお母さんが買ってくれた、東京の想い出だったから。力をくれるものだったから。
「誰! こんなことしたの!?」
教室に駆け戻って、私は叫んだ。
つづく
備考この内容は、2009年5月2日発行、リンダブックス編集部
「99のなみだ 小松知佳著:転校」より紹介しました。