70年、私は5歳になった。前年には、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功し、
日本では華々しく万国博覧会が開催された年だ。
私は、誰もが知っている都内の有名幼稚園に入園。全国各地から集まった
高貴な子供しか入ることが許されない名門だ。しかし、当時の私は体も
小さく体力面はもとより、学習面でも周囲に遅れを取っている劣等生だったこと
を告白しよう。サクセスを勝ち得た人間は、過去のダメだった自分を必死で
隠そうとするが、私にはその行動ができない。真の天才、真の成功者
ならば、昔の過ちをすべて包み隠さず語っても、その価値が変化することなど
ない。昔の自分が今の自分を作ったことに違いないのだから、堂々として
いればいいのである。
さて、では私が実際どのような子供だったのか、ここで1つのエピソード
を紹介しておこう。当時の私は、今と違って勝負弱いところがあり、じゃん
けんでいつも負けるため、ウルトラマンごっこでは怪獣役。仮面ライダー
ごっこの時は怪人役すら任されず、ショッカーもしくは逃げ惑う人々役と
して遊びに加わっていた。ヒーローへのあこがれが強くなったのは、この
せいかもしれない。そんなこともあり、私は仲間たちが家路についた後、ひとり
空き地に残って、「ジョワッ」などと、ごっこの続きを興じたものだった。当時
から、ずば抜けた想像力を持っていた私にかかれば、ヒーローごっこはむしろ
一人で十分。私はウルトラマンから怪獣、警備隊の面々まで演じ分け、
常にエキサイティングでスマートな”ごっこ”を演出した。
しかしある時、私のそんな姿を見かねた父は、「次郎を鍛え直す!」と、
まだ6歳だった私を連れて、天狗岳登山を決行。長野から山梨にまたがる
八ヶ岳連峰の天狗山は標高2646mを誇り、幼く体力のなかった当時
の私にとっては、長く険しい道のりだった。しかし、どんなに助けを求め
ようとも、父が手を差し伸べてくれることはなかった。
這うようにして頂上へ到達した私に、父はこんな言葉をかけた。「次郎よ、
お前の先祖は天狗だ。この山に住み、下界を見下ろしながら、その絶対的な
力のままに暮らしてきた天狗だ。お前にできないことはない。胸を張れ。
自分に秘められた力を信じるのだ」と。幼かった私は、そんな父の言葉に、
痛く感動したことを覚えている。バカげたことと思うかもしれないが、あの
厳格な父が言うのだから、確かに先祖は天狗に違いない。手が大きいのも
その証拠だ。
自分の潜在能力を確信した私は、すっかり高揚した気分で、父の制止も
聞かず飛ぶように山道を下って行った。案の定、勢い余った私は落差10m
はあろうかと言う崖から転落。が、たまたま木の枝でバウンドし、落下
地点が沼地だったこともあり、けがは すり傷程度で済んだ。普通の人間であれば、
それ以来高所恐怖症にでもなるような大事故なのだが、私はこの程度の
ことでは全く動じなかった。現在、崖のそばを歩くときに足が震えるのは、
決して恐怖からではなく、天狗の血が崖を飛び降りたいと駆り立てる。
いわば武者震いのようなものだ。

中国からやってきたパンダが、上野動物園で初めて公開されたのが、72年。7歳
になった私は、幼稚園の系列小学校にエスカレーター式に進学した。母は、
その頃から徐々に天才の片りんを見せ始めていた私に、英才教育を施すように
なる。塾や習い事に通う子供が一握りしかいなかったあの時代。私は書道、
ピアノ、そろばんと3つの教室に通い、小学校時代の6年間、無遅刻無欠席
を貫いた。その成果が出始めたのが、小学3年の頃からだった。まず、書き
初めで書いた”うずまき”と言う文字が、都の大会で優秀賞を獲得。さらに
4年の頃には、ピアノとそろばんで、全国大会に出場するまでになっていた。
小学生ながら、ベートーベンのピアノ協奏曲を完全にマスターし、4ケタの
四足演算は即座に回答。近所では”拝島の神童”と評判を呼ぶほどであった。
学習面でめざましい成果を上げていた私は、小学校高学年になると体力面
でも大きな変化を遂げる。ベジタリアンだった父の影響で、肉類を一切口に
しなかったため、低学年時代の前へならえではもっぱら腰に両手を当てる
先頭だったのだが、その頃から母が私に大量の白米と牛乳を摂取させたことで
急激に成長。その食生活は今でも変わりなく、毎日2Lの牛乳と、
1升のコメを食べ続けている。米だったらいくらでも食べられるという健康体に
なったのも、すべて母のおかげである。
また、背も著しく伸びたのだが、それ以上に体の〇部分が異常なスピードで
成長した。何事も完璧にこなしていた当時の私にとって、プールの時間に
競泳用の水着を着用しなければならないことが唯一の悩みであった。
78年、またもエスカレータ式に系列中学校へ入学。その頃になると、私の
才能は開花し、成績は常にトップを維持するようになっていった。
いや、学年トップなどと小さな話をしても仕方ない。もはや全国レベルの
頭脳を持つまでになっていたと表現した方が適格だろう。
カラテを始めたのは、14歳の時であった。きっかけは、テレビ映画で見た
ブルース・リー。一瞬で彼に魅了されてしまった私は、その時、手に持っていた
アツアツのうどんをすべて股間にぶちまけてしまうほどの衝撃を受けた。
どうも私には、何かに気を取られるとつい手にしているものを放してしまう癖
があるようだ。それはさておき、私は日本通信カラテ教会(JCKA)の
講座に申し込み、毎月教会から送られてくるテキストを熟読するようになった。
そして、めきめきと腕を上げて言ったのだが、それはもちろん、私の
恵まれた体格と抜群の理解力によるところが大きいことは言う間でもない。
実際、自宅で一人で行う添削制の学科試験では常に満点。むろんテスト
中にテキストを盗み見るようなカンニング行為は一切していない。私があまり
にも完璧な答案を提出するので、添削指導してくれた”赤オビ先生”に
とっては、ある意味教えがいのない門徒だったのかもしれない。
また、実技テストは、テキストに書かれた通りに演舞を行いながら
気合の声を上げ、それを録音。そのテープを教会本部に郵送し、声の気合度に
よって師範代が進級の合否を判定する方式がとられていた。そして、
私はわずか8か月後、”通信カラテ免許皆伝”の称号を得た。
しかし、いくら腕を上げたと言っても、力におぼれることはなかった。強さ
は自分の中にだけあれば十分。私は、「ケンカは見にくいもの」という意識から、
極力争いを避け、自分から手を出すようなことは決してなかった。
余談ではあるが、15歳のころ、地元の拝島商店街で、大声コンテストが開催
された。その3位商品が貴重な”ブルース・リーモデル”のヌンチャク。
即刻、参加を決めた私だったが、賞品欲しさに力みすぎ、「ウアチョー」の一声
で勢い余って優勝。ヌンチャクは、「馬並み!」と絶叫した〇庵という
蕎麦屋さんのご隠居・トメさん(当時78歳)の手に渡ってしまった。その時、
しょうがなく受け取ったのが、石井カバン店提供の優勝賞品・本革肩掛けカバンだった。
正直がっかりしたのだが、使っているうちに自然と愛着がわき、今も
その時のかばんを大切に愛用している。
備考:この内容は学習研究社 上田次郎著 「どんと来い!、超常現象」(¥12385)
より紹介しました。