「バレーボール選手になりたい」 栗原恵
地元の鹿川(かのかわ)小学校に入学し、4年生になると小学校のスポーツ少年団で
バレーボールを始めた。「鹿川フラワーズ」という可愛らしいチーム名までついて
いた。
練習は週2回、放課後に2~3時間程度。基本的なテクニックの練習だった
けれど、どちらかと言うと、みんなでバレーボールを楽しみましょう、という
雰囲気だった。私が6年生になるころに、父がチームでコーチをやるように
なり、練習の密度が濃くなったように思う。
当時の私は、やっぱり頭一つ分、ほかの子供たちよりは大きかった。
だから、センターやレフトからスパイクを打つことが多かった。自分でも、
やっぱりスパイクが楽しかったのだと思う。学校の体育館の練習だけでは物足りな
くて、父に頼んで家の中にボールを吊るしてもらい、それを打ち込む練習まで
していた。父は、さらに筋力トレーニング用にセラバンド(チューブ)のよう
なものまで用意して、私にスイングの練習もやらせていた。でも、相変わらず、
上手くできないと言っては、親子ゲンカをしていた。
6年生の時には、身長はすでに176cmはあったと思う。スパイクを打つ
のも楽しかったけれど、レシーブ練習も嫌いじゃなかった。というより、その
ころも、そして今でも、レシーブ練習は好きだ。きちんと上げられれば、その
ボールがセッターに渡る。そして、チームの得点につながっていく。バレーボール
のチームプレーとしての面白さは、ファーストコンタクト。つまり、
レシーブにあるような気がするのだ。
公式戦などの大きな大会に出場するために本州に出かけたり、夏休みに一泊
二日で合宿したりするのも楽しかった。昼間はバレーボールをして、夕方に
なるとみんなでバーベキューや花火をしたり、そんな思い出がいっぱいだ。遅父と
の練習では「できない、できない」と言って、悔し泣きをすることもあった
けれど、総じてバレーボールが楽しかった。チーム自体は平凡なクラブチームで、
県内で特別いい成績を残すような強豪校ではなかった。私自身もエリート選手
ではなかった。でも、小学校のときにみんなでバレーボールをする楽しさを、
カラダいっぱいに感じながらプレーできたのが、今の自分の土台になっている。
「将来はバレーボールの選手になりたい!」
小学校の頃の文集に書いた、将来の夢。ただただ、バレーが大好きだった
から、バレーボールをずっとやり続けていくなら、選手になるのがいいと、
幼心に思っていたのだった。
備考:この内容は実業之日本社 栗原恵著 めぐみ(¥1200+税) より紹介しました。