上沼真平と恵美子のふたりは、テレビ番組の制作現場で知り合った。妻
恵美子は当時千里万里の千里としてテレビ、ラジオのレギュラー週13本。
なんと13本ですよ。東京大阪を股に掛ける人気お笑いタレントとして大活躍中。
歌えば「大阪ラプソディー」が大ヒットし、お笑い界の白雪姫などとも呼ばれる
アイドル的な人気を持つトップタレントであった。
一方、夫真平は、関西テレビで売出し中の若手バリバリディレクター。
AD経験たったの1年で1本立ちのディレクターに抜擢されるや、ヒット
番組を次々と生み出す関西テレビ期待の星だった。
そんな二人が、新番組の司会者とディレクターとして出会った。二人が
好意を持ち合うのは時間の問題だった。やがて出演者とスタッフと言うこの
禁断の恋は結ばれ、海原千里は芸能界を引退し、二人は結婚した。新郎30歳、
新婦22歳。昭和52年のことであった。
順調にスタートしたかに見えたふたりの結婚生活であったが、しばらくすると
恐ろしいことが起こった・・・。
妻の怒り
純白のウエディングドレスを着た私は、幸せの絶頂にいました。隣にエンビ服姿の
あなたがいます。私たちの結婚披露宴はあるホテルの最上階の展望レストランを借り
切って行われました。2組のフルバンドが合同演奏するウエディングマーチが会場に
流れます。
「とうとう最愛のこの人と結婚するんだわ」
わたしは涙ぐんでいました。
結婚生活がスタートしましたが、それまで私は家事と言うものをやったことがありません。
15歳の時、海原千里万里としてデビューして以来、姉と二人のマンション
暮らし。時々、母と祖母が手伝いに来てくれましたから、生活の不便は
ありませんでした。それが掃除、洗濯、炊事です。ところが、何をやっても新鮮で、何を
やっても楽しいのです。特に炊事です。ご飯も炊いたことのなかった私は、お米をとぐと、
とぎすぎて3分の1ぐらいの量に減ってしまったことがあります。それでも炊き上がった
ご飯を味見して「ヤッホー!」と叫んでしまいました。
ある日のこと、「今晩何食べたい?」と聞くと、「ラーメン」とのこと。さっそく
スーパーで材料を買い出し、朝からその支度を始めました。麺はゆがいてザルに入れて
置きました。
夜10時過ぎにあなたは帰ってきました。ザルに入れておいた麺を鉢に移し、アツアツの
スープを注ぎますが、何か変なのです。麺がまるでダンゴみたいなのです。
「アチャー、こりゃ失敗したな」
さすがに無知な私でも気づきました。しかしあなたは、
「変わったラーメンだね。すいとんみたいで。こういうのも
ありだよな」
と、おいしそうに食べてくれました。その優しさは、今も「おしゃべりクッキング」
などの料理番組に出演している私の勇気の源になっています。
今度はオムライスです。どうしても薄焼き卵が真ん中で破れてしまい中の
チキンライスが見えてしまうのです。やむなく薄焼き卵の破れた部分に、トマトケ
チャップをハート型にかけ、隠しておいたのです。
それを見たあなたは皮肉な目をしていました。
「こんなことをしても無駄だよ。卵が破れているのは一目瞭然だから」
そして、スプーンで乱暴にケチャップをどけ、卵の傷をさらに大きくしたのです。
「いじわる。そんな言い方ないと思うわ。そりゃ私は料理の腕、半人前以下よ、
下手よ、でたらめよ。
でもそんな目で私を見て、あざ笑うのはやめてよ!」
いたたまれなくなった私はそのまま家を飛び出し、家出してしまいました。
どこへ行こ、どこへ行こ。でも腹立つなぁ。実家の大阪城に帰るわけにもいかず、
故郷のパリは遠い。そうだ、私には姉がいた。姉の住む東京へ行こう。新幹線に飛び乗った私は、
東京に住む姉の所に向かってしまったのです。
夫の言い分
「結婚は人生の墓場だ」と人は言う。我慢の連続だぞと言う教えで、甘くなりがちな幻想を
戒めるための言葉と思うが、墓場はチト言いすぎか。僕が結婚したのが30歳。それなりの
人生経験もあり、結婚生活にキラキラの夢を見ていたわけではない。それでも、こうありたい
と言う思いはいくつか持っていた。
僕の両親は見合いで結婚した。明治生まれだった父は見事なくらいな頑固者で、家事の
手伝いなど全くせず、寡黙で仕事一途な人。母に贈物などしたこともなく、優しい言葉をかける
のを見たこともなかった。
母は専業主婦。明るくて優しい人で、豊富な趣味を持つ社交家だ。性格の全く違う
この夫婦、二人だけで食事に行くことも、映画や芝居を見に行くことも、旅行に行くことも
なかった。そういう時代ではあったのだろうが、母は幸せなのかと疑問に思っていた。その
思いは父の死に際に氷解した。母の取り乱し方、嘆き悲しみ方は半端じゃなく、深い愛を感じた。
僕は、最も身近な父と母と言う夫婦を、反面教師的な部分を含めて参考にした。男は
外で仕事をし、女は家庭を守ると言った形式的なことではなく、とにかくよく
話し合うこと。何でも二人で一緒にやること。
結婚生活がスタートした。僕は仕事があるので、毎日の生活はそう変わらない。ところが、
君の生活はゴロリと変わってしまった。テレビ、ラジオの番組に出演し、劇場に出る。
ファンに囲まれ、逃げるように帰ってきて好物のてっちりを食べる。それが、掃除洗濯と食事の
支度で一日が暮れる毎日。スポットライトも当たらず、誰も拍手してくれない。
「平凡なサラリーマンの妻になるのは夢でした」
などと言っていた自分がバカに思えることもあったでしょう。
君はそんなそぶりは一切見せなかった。特に興味を持ったらしいのが料理で、ご飯も
炊いたことのなかった君が、毎日料理本と首っ引きで、新しいメニューに挑戦していた。
それはそれはいじらしいもので、感心して見ていたものだった。
ところで、オムレツの薄焼き卵を作るのは難しいもので、オムライスで有名な「北極星」の
おやじもよく失敗すると言っていた。結局、卵4つを使い、分厚い薄焼き卵を作ることで
解決したそうだが、家庭で卵4つは無理。薄焼き卵が破れるのは当然のことです。それより、
トマトケチャップを単にかけるんじゃなく、デミグラスソースやグレービーソース、いやブルーチーズを
粒にしてトリフソースで溶いたやつなんかいいんじゃないだろうか?中の具も、カモのロースを
エシャロットといっしょに細かく刻み、アンチョビと和えたものなんかどうだろうか。
あっ、また東京に逃げてしまったよ。
この内容は、Gakken 上沼恵美子著 犬も食わない(\933+税) より紹介しました。