新宿二丁目とは

東京都新宿区に位置し、メインストリートの「仲通り」を中心に同性愛者向けのバーやクラブが多く集まる。 日本で一番大きなゲイ・タウンでもあり、世界最大級とも言われている。

■ゲイ・タウン タイムライン

1945 日本初のゲイバー「やなぎ」が新橋の烏森神社境内付近に開店。(女装バー)

1951 新宿初のゲイバー「イプセン」が三丁目に開店。 同時に前田光安が経営する「蘭屋」、「ラ・カーヴ」、「ロートレック」、「シレ」などのゲイバーが新宿三丁目要町に開店し、新宿ゲイ・タウンの礎となる街を形成していった。

この頃のゲイバーは女装バーの占める割合が高かった。 また、男性が集まるゲイバーでは、お客が店員を使命して売春行為を行うシステムが盛んであり、性に直結した営業が主であったとされる。

1958 売春防止法により多くのゲイバーが空き家となった。 そこで前田は二丁目の地所を積極的に買い取り、ゲイ・タウンを作り始めた。

1960 新宿二丁目がゲイ・タウンとして周囲に認知され始める。

1970 70年代半ばには、美輪明宏の「クラブ巴里」や伊藤文學の「談話室 祭」が新宿五丁目の靖国通り沿いのQフラットビルに開店する。同じビルには「ブラックボックス」や「MAKO」のゲイディスコが開店し、満員電車並みの混雑を見せた。

1971 日本初のゲイ向け雑誌「薔薇族」を筆頭に、「アドン」、「さぶ」、「SAMON」、「ザ・ゲイ」、「G-men」、「Badi」等が次々と発行された。 ゲイバー、風俗店、ビデオメーカーの広告が主であった。

1989 5月に日本初の一般向けクラブでの「ゲイ・ナイト」が花園神社裏の「ミロス・ガレージ」(現、クラブワイヤー)にて開かれる。加藤ユキヒロがニューヨークのクラブカルチャーを吸収して持ち込んだものとされている。

1990 メディアで「ゲイブーム」が起きる。 火付け役となったのは比留間久夫の二丁目を舞台にした小説「YESYESYES」が文芸賞を受賞した事と、文藝春秋の雑誌「クレア」がゲイの大特集を組んだ事だった。 その後、テレビのワイドショーによりゲイ特集が組まれた。

文学では他に、中上健次の「讃歌」、比留間久夫「ハッピー・バースデイ」、エドマンド・ホワイト「ある少年の物語」、「美しい部屋は空っぽ」、パトリシア・ネル・ウォーレン「フロントランナー」

ゲイ映画では、小島康史監督「らせんの素猫」、リバーフェニックスとキアヌ・ニーブス主演の「マイ・プライベート・アイダホ」、中島丈博監督「おこげ」、橋口亮輔「二十才の微熱」

テレビドラマでは、日本テレビ系「同窓会」、「告白」、「ロマンス」。

1991 芝浦のクラブ「GOLD」でゲイナイトが行われ、その人気は二丁目から芝浦直行のバスが出る程であった。ゲイ無いとはそれまで比較的少人数だったゲイクラブの概念を一気に数百単位の規模に押し上げた。 二丁目には伝説的なゲイ無いと向け常設クラブ「ディライト」がオープンし、日比谷にも「ラジオシティ」、歌舞伎町には「CODE」が二丁目を超えて広がりを見せた。

現在の二丁目 

二丁目には現在、ゲイバー、売り専門店、ゲイショップ店等を含めた約300軒以上の店が立ち並んでいる。「会員制」等のプレートを貼り、女性客の入店や異性愛者を断るバーも多い。  以前よりはストレートや女性が立ち入れるバーになっているが、この事がゲイ・タウンとしての新宿二丁目の勢いを奪っているという見方もある。

リーマン・ショック以降の不況により、二丁目に来るゲイが減った事から、ゲイバーは異性愛者に対しても店を開放する様になった。 この事により同性愛者はゲイバーに通いづらくなったのだ。 また、インターネットの普及により、二丁目以外でも気軽に同性愛者に会える環境が確保できる様になった。 上野、浅草、渋谷、新橋、池袋、にもゲイバーが増え、わざわざ二丁目に出向く事もなくゲイ同士が出会える環境が整ったのも、比較的“性”をオープンできる社会になってきた日本の社会情勢の影響とも言えるだろう。