議会主義にもとづくイギリスの立憲政治は、名誉革命によってはじまった。1670年代の末ごろのイギリスの議会の内部には、国王の権利を重んじた、貴族や地主を中心とする(トーリー)党と、議会の権利を主張した、中産階級を地盤とする(ホイッグ)党がうまれ、対立していたが、名誉革命ではこの両者が手をにぎった。
 議会が議決した(権利の宣言)を承認して王位についたウィリアム3世は、はじめ両党の代表者による連立内閣を組織させたが、17世紀末から議会の多数党が内閣を組織する政党政治がはじまった。その後、ジョージ1世の時期には政務はもっぱら大臣にゆだねられ、これが契機となって、内閣が王にたいしてではなく議会にたいして責任を負う責任内閣制が確立し、立憲政治はさらに発展した。
 1820年ごろになるとイギリスの経済はナポレオン戦争後の不況から回復し、商業、工業、貿易が繁栄をとりもどし、急進的であった労働運動も穏やかなものになっていった。そして「最大多数の最大幸福」をとなえた(ベンサム)の功利主義が民主主義の理想としてひろまるようになり、結社禁止法や審査律が廃止されたり、カトリック教徒解放法が施行されるなど自由主義的な改革がすすめられた。
 しかし当時のイギリスにとっての最大の問題は、選挙法改正問題であった。イギリスの議会政治は、フランスの啓蒙思想家の模範となっていたが、その選挙制度には多くの不合理が存在し、その改正は18世紀にもしばしば問題となっており、1810年代の労働運動の主な目的のひとっでもあった。地主、貴族階級の勢力が強い上院の頑強な抵抗にもかかわらず、国民の強い要求によって、1832年第1回選挙法改正が行われた。
 19世紀のイギリスは、産業革命による経済的優位と自由主義的改革によって議会制民主主義を発展させ、保守党と自由覚が交互に政権を担当する模範的な議会政治が成立した。ヴィクトリア女王時代を代表する政治家としては、「アイルランド土地法」の制定など主として内政改革にとり組んだ、自由党の(グラッドストン)を、またインド帝国の樹立など対外政策に力を注いだ、保守党のディズレイリを挙げることができるが、これらの重要な施策はいずれも政党内閣によって行われたものである。選挙制度の改革に関しても、普通選挙制度の実施を要求した(チャーチスト運動)は、1848年をピークに沈滞していったが、1867年には保守党内閣のもとで第2回改正が、1884年には自由党内閣のもとで第3回改正が行われた。それ以外にも1870年には「教育法」、1871年には「労働組合法」が制定されるなど、全体としてイギリス自由主義体制が発展した。
 19世紀末からイギリスでは帝国主義的傾向が強まるが、同時に国内での労働運動、社会運動もさかんになり、次第に社会不安が増大した。1905年に成立した自由党内閣は、その翌年に成立した労働党の協力をえて、「国民保険法」などをふくむ多くの社会改革をおこない、労働者の不満をやわらげ、社会不安を沈静化させようとした。しかし上院ではなお保守党の勢力が強<これらの改革に反対し、下院を通過した予算案を否決したので、1911年下院は「議会法」を成立させ、これによって下院の上院に対する優位が確立された。
 この時期にはまた婦人参政権運動がいちじるしく高揚して、暴力的な動きにはしる傾向さえ示した。とくに1903年に「婦人社会政治同盟」が結成されて以降、デモ行進を行ない、警官隊ともみ合うなど、この運動は戦闘的になった。このような経過を経て1918年に第4回選挙法改正が行なわれ、成年男子と30才以上の婦人に選挙権が与えられることになり、さらに1928年の第5回選挙法改正においてはすべての成年男女に選挙権が与えられることとなった。ここにおいて普通選挙制度が完成した。