フランスとロシアは【英露協商】を結んだ。【1891】年に商業面における協力関係を打ち立てた。これは【1890】年に【ビスマルク】が引退し、ドイツ資本がロシアから撤退を始めたため、ロシア政府は近代化のための資本不足を補うために、フランス資本を導入することを狙ったためである。フランス資本がロシアに入るということは、フランス製紡績機械を並べた工場が建設されたり、フランスの会社が資金を調達して、【シベリア鉄道】などの建設を行い、鉄道会社の経営を通じてさらに利益を上げるということである。1890年代からロシアは急速に工業化を達成させ、経済成長率は日本の高度経済成長期を上回る。この露仏協商は【1894】年軍事同盟に発展した。
フランスとイギリスは1870年代から【アフリカ大陸】を巡って対立していた。フランスは【1830】年に植民地化していた【アルジェリア】からアフリカ東部の【ジプチ】までの【横断】政策を展開したし、これに対してイギリスは【カイロ】と【ケープタウン】を結ぶ【縦断】政策を展開していた。
両国の対立は【1898】年【スーダン】の【ファショダ】事件で軍事衝突の危機にまで発展した。しかし、1890年に即位して「【新航路政策】」を唱えていたドイツ皇帝【ヴィルヘルム2世】が、【1898】年に【建艦法】を制定し、イギリスの軍艦を上回る艦隊を創設することを宣言した。英仏はドイツの台頭に対応するために、1898年のファショダ事件を解決することを優先させた。これ以後、ドイツとイギリスはこれ以後「【建艦競争】」に入る。このことは、第2次世界大戦後の冷戦期に、米ソが核開発競争を展開したことに似ている。
この流れの中で【1904】年には【英仏協商】が成立し、フランスはイギリスが【エジプト】を保護国化したことを承認し、その代償として【モロッコ】を勢力圏に置くことをイギリスに認めさせた。
ロシアとイギリスは19世紀中頃から対立関係にあった。これはイギリスがインド洋の安全保障を重視するのに対し、ロシアが【南下】政策を展開していたためである。ロシアが極東地域への南下を図るのに対し、【1902】年イギリスは【日英同盟】を結んで対抗した。この政策は功を奏し、日本がロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えて勝利した。そのため、海軍力が著しく低下したロシアは、イギリスの海外植民地支配にとって脅威ではなくなり、【1907】年に【】英露協商が結ばれることになる。最後に競合する【カジャール】朝イランを南北に支配圏でわけ、北イランを【ロシア】が、南イランを【イギリス】が勢力圏とすることを決めた。
このように、第1次世界大戦前の国際情勢は、イギリスを機軸とする3国協商と、ドイツとの対立となった。英独対立は、イギリスの【3C】政策すなわちインド洋支配と、これを脅かすドイツの【3B】政策である。3B政策はオスマン=トルコをドイツが市場化するだけでなく、バグダッドからペルシア湾に出て、インド洋にドイツ艦隊を浮かべることで、イギリスに対する優位性を確保しようとするものであった。