ワークシート(27)中国史(10)五代十国と北宋・遼の建国

 907年朱全忠が唐を滅ぼして後梁を建国した。この【 】から始まる5王朝の時代を五代十国という。そのころ、916年契丹(キッタン)族の耶律阿保機(ヤリツアホキ)がモンゴル高原で遼を建国した。【 】年にモンゴル高原で遼を建国した【 】(ヤリツアホキ)は、926年に渤海を征服した。【 】(ヤリツアホキ)は渤海征服直後になくなった。さらに、遼は五代十国の3番目の王朝である後晋の建国を助けて936年に燕雲十六州を獲得した。【 】年に獲得した燕雲十六州は現在の北京周辺の土地である。なお、【 】を遼に譲った後晋の建国者は石敬瑭である。遼はモンゴル高原を支配するために北面官を、中国の一部である【 】を支配するために南面官を置いた。すなわち【 】官はモンゴル高原の【 】族を支配する役所で、【 】官は燕雲十六州の中国人を支配するための役所である。遼がとった【 】族と中国人を別々に支配する方法を二重統治体制という。以後、燕雲十六州を【 】から奪い返すことが、歴代の中国皇帝にとっての悲願になった。
 五代十国の最後の王朝は後周であった。960年この【 】を倒したのが趙匡胤(チョウキョウイン)で、都を開封において宋(北宋)を建国した。都の【 】は商業都市として繁栄した。宋を建国した【 】は、武人を政治の舞台から追放して文治主義をとった。この【 】主義とは、科挙という官吏登用制度で採用した官僚に政治を任せるものである。宋代には皇帝自ら試験を行う殿試が採用されて、官吏登用制度である【 】は完成した。
しかし、【 】主義をとって武人を追放した結果、宋の軍事力は著しく低下したので、消極的外交政策をとった。そのためモンゴル高原の遼と1004年に「澶淵の盟」を結んで和睦した。「【 】の盟」では宋の立場は兄、遼を弟とした。また、チベット系のタングート族が建てた西夏とも1044年に「慶暦の和」を結んだ。「【 】の和」では宋の立場は君主で、【 】は臣下とされた。その代わり、宋は【 】年の「澶淵の盟」や【 】年の「慶暦の和」で国境貿易を約束し、絹など多くの贈り物を与えねばならなかった。
  宋が採用した【 】外交政策の結果、宋の財政支出は大きくなったので、王安石が財政再建を行った。【 】が行った財政再建策を「王安石の新法」という。「【 】の新法」は均輸法や平準法、保甲法や保馬法などである。しかし、この「【 】の新法」に反対する勢力は司馬光を中心に抵抗した。【 】を中心とする反対派を「旧法党」という。なお、財政再建反対派の「【 】党」の指導者【 】は、『資治通鑑』という歴史書を書いた。『【 】』は編年体で書かれた最初の歴史書である。年代順に歴史を書く方法を編年体といい、この【 】体に対して、人物や出来事中心に歴史を書く方法を紀伝体という。






ワンフレーズ・チェック
(1) 契丹族の遼は【 】年に【 】が建国し、【 】年に渤海滅ぼし、【 】年燕雲十六州を得た;
(2) 契丹族の【 】は【 】体制をとり、【 】官と【 】官を置いてそれぞれを支配した、
(3) 中国歴代皇帝にとって【 】族の遼に奪われた【 】を奪回することが悲願になった。
(4) 【 】年に【 】が宋を建国した。都の【 】は商業都市として繁栄した。
(5) 宋は【 】主義をとり、皇帝が行う最終試験である【 】を始めて科挙を完成させた。
(6) 宋は【 】外交政策をとった。
(7) 宋は遼との間で【 】年に「【 】の盟」を結んだ。宋を【 】、遼を【 】という立場をとった。
(8) 宋は西夏との間で【 】年に「【 】の和」を結んだ。宋を【 】、西夏を家臣という立場をとった。
(9) 宋が行った財政再建のための改革を「【 】の新法」といい、反対派を【 】党と呼んだ。
(10) 旧法党の指導者【 】は『【 】』という歴史書を著した。