97京都産業大学(経営・法)古代オリエント史
以下の文章を読み,(1)~(10)にもつとも適す語句を記入せよ。
世界の文明は,オリエントから始まった。オリエントとは,もともとラテン語で「日の昇る方向」を意味し,ヨーロッパから見て東の,今日のエジプト・西アジア・小アジアなどの地域を指す。オリエントは世界の文明の発祥地という点で,まさに「日が昇る」地域だったといえよう。オリエントの諸地域は通常,気温が高く降雨は非常に少ない。そのため,砂漠ないしそれに近い乾燥地域である。しかしながらオリエントにおいては,メソポタミアのチグリス・ユーフラテス川流域,エジプトのナイル川流域で毎年一定の時期に氾濫が生じていた。それによって沃土がもたらされ,農業が行なわれるようになった。そのため人々が定住し,文明が生まれたのである。
メソポタミアにおいては,すでに前4000年紀には,多くの村落が存在していた。それらが発展して,やがて都市国家となった。都市国家を築いたのは民族系統不明のシュメール人であった。以降,前2700年頃まで,メソポタミアにおいてシュメール人による都市国家が多数建設された。シュメール人の都市国家遺跡のうち,著名なものにウルやウルクがある。各都市の周囲は城壁で囲まれ,中心部には神の住居とされる7層の塔の(1)があった。シュメール人の都市国家では,各都市は独立し,互いに抗争を行なった。神権政治がなされ,市民は神殿共同体に属し,土地は原則的にすべてが神のものとされた。大規模な灌漑事業によって生産性が高められ,交易が行なわれ,富が蓄えられた。また銅や青銅器なども普及しはじめた。メソポタミアの農業生産性は,中世ヨーロッパの10倍以上もあったといわれるほど高かった。シュメール人はその豊かな経済力にもとづき大規模な神殿や宮殿,王墓を築き,高度なシュメール文明を発展させたのである。
シュメール人はさらに象形文字の一種である楔形文字を作った。楔形文字は神官や書記が祭祀や法規を書く際に利用された。楔形文字はまたさまざまな民族の間でも用いられるようになり,それは粘土板の上に陰刻された。農業との関連でシュメール人は,天文学も発展させた。太陰暦が使われ,うるう年も設けられた。天文上の円周の分割から始まった60進法が使われ,角度・時間の単位となった。このように政治面のみならず,学問面,とくに実用的な分野が大いに発達したシュメールであったが、絶え間なく戦争が行なわれ,さらに周辺の諸民族の侵入により国土が疲弊し,アッカド人に滅ぼされた。
アッカド人は前24世紀の国王の(2)のとき,メソポタミアの都市群を統一することに成功した。この国王は領土を大きく拡大し,メソポタミア最古の征服者となった。しかしアッカド人の王国も南部都市を中核とする反乱や,東方の山岳民族の侵入により,約1世記後に滅んだ。ついで一時シュメール人が勢力を回復させたが,やがて遊牧民の(3)人がメソポタミアに多数侵入し,前19世紀にはバビロンを都として古バビロニア王国を建国した。そして前18世紀,第6代の王ハンムラビのとき,全メソポタミアを統一した。ハンムラビ王は運河の大工事を行ない,治水・灌漑に努め,シュメール法を継承したハンムラピ法典をつくった。全282条からなるこの法典では,刑法は「目には目を,歯には歯を」という(4)の原則と,身分によって異なった刑罰を科す身分原理にのっとっていた。ハンムラビ王は中央集椎化をはかり,他民族の支配を行なった。ハンムラビ王以降,古バビロニア王国は衰退を迎え,前16世紀初頭に,(5)系語族のヒッタイト人によって滅ぼされた。ヒッタイト人の最盛期は前14世紀で,ミタンニやエジプトと抗争した。前13世紀初頭には,北進して来たエジプト新王国のラメス2世とカデシュの戦いを行なった。ヒッタイトは民族大移動のなか,前1190年頃,バルカン方面から来襲した民族に滅ぼされた。
すでに述べたように,エジプトのナイル川では,毎年氾濫がおこった。氾濫により生じた沃土を利用して農業が発達し,しかもナイル川はまた流域各地を結ぶ交通路として機能した。古代エジプトの歴史はナイル川によって形成されたという色彩が強く,したがって史家(6)の「エジプトはナイルのたまもの」という言葉は,けだし名言と言えよう。ナイル川流域には後世ギリシア語でノモスと呼ばれることになった村落が分立した。ナイル川の治水には住民の共同労働および住民を指揮するための強力な指導者が必要であったので,ノモスを統一する気運が生まれた。やがて上エジプトと下エジプトの二つの王国にまとまり,ついに前3000年頃,メネスによって統国家が形成された。
前27世紀の第3王朝から始まる古王国時代においては,首都は(7)におかれていた。中央集権体制が完成し,古代エジプトは最初の繁栄期を迎えた。そしてファラオと呼ばれる国王が神の化身として君臨する,神格政治が行なわれた。王の力はすこぶる強く,王の墓として知られるピラミッドの存在がそれを示している。ピラミッドは古王国時代の代表的建造物であり,最大のピラミッドは,(8)王のものである。第5王朝では太陽神ラーの信仰が強くなり,国家祭祀の中心は王ではなく太陽神になった。そのため,ピラミッドは小規模になった。
第6王朝ののち,一時エジプトは統一を失ったが,前22世紀に中王国が再び全土を統一した。しかし前17世紀初頭,西アジア系のヒクソスが侵入し,彼らは馬と戦車をエジプトにもたらし,1世紀にわたって,エジプトを支配した。前16世紀、アアフメス世がヒクソスを追放し,エジプトを統一し,第18王朝を開いた。これ以降第20王朝までの約500年間は,新王国時代と呼ばれる。第18・19王朝が全盛期で,対外的にも積極策をとった。トトメス3世は北はシリアやナイル川上流のヌビアを征服し,広大な領土を獲得した。また前述のように,ラメス2世は,ヒッタイト人と喰った。エジプト人は多神政を信仰していた。第18王朝のアメンホテプ4世は,アモン中心の多神教に代え,唯一神(9)の信仰を強制した。しかし急激な変革は内政の混乱をもたらし,彼の死後はアモン神の信仰が復活した。エジプト人は自然現集や天佑,物など人知を心えたあらゆるものに対して神性を認め神格化した。彼らは霊魂不減と(10)神が支配する死後の世界を信じ,遺体をミイラにして保存した。
正解
ジッグラット サルゴン1世 アムル 復讐法 インド=ヨーロッパ ヘロドトス
メンフィス クフ アトン オシリス
以下の文章を読み,(1)~(10)にもつとも適す語句を記入せよ。
世界の文明は,オリエントから始まった。オリエントとは,もともとラテン語で「日の昇る方向」を意味し,ヨーロッパから見て東の,今日のエジプト・西アジア・小アジアなどの地域を指す。オリエントは世界の文明の発祥地という点で,まさに「日が昇る」地域だったといえよう。オリエントの諸地域は通常,気温が高く降雨は非常に少ない。そのため,砂漠ないしそれに近い乾燥地域である。しかしながらオリエントにおいては,メソポタミアのチグリス・ユーフラテス川流域,エジプトのナイル川流域で毎年一定の時期に氾濫が生じていた。それによって沃土がもたらされ,農業が行なわれるようになった。そのため人々が定住し,文明が生まれたのである。
メソポタミアにおいては,すでに前4000年紀には,多くの村落が存在していた。それらが発展して,やがて都市国家となった。都市国家を築いたのは民族系統不明のシュメール人であった。以降,前2700年頃まで,メソポタミアにおいてシュメール人による都市国家が多数建設された。シュメール人の都市国家遺跡のうち,著名なものにウルやウルクがある。各都市の周囲は城壁で囲まれ,中心部には神の住居とされる7層の塔の(1)があった。シュメール人の都市国家では,各都市は独立し,互いに抗争を行なった。神権政治がなされ,市民は神殿共同体に属し,土地は原則的にすべてが神のものとされた。大規模な灌漑事業によって生産性が高められ,交易が行なわれ,富が蓄えられた。また銅や青銅器なども普及しはじめた。メソポタミアの農業生産性は,中世ヨーロッパの10倍以上もあったといわれるほど高かった。シュメール人はその豊かな経済力にもとづき大規模な神殿や宮殿,王墓を築き,高度なシュメール文明を発展させたのである。
シュメール人はさらに象形文字の一種である楔形文字を作った。楔形文字は神官や書記が祭祀や法規を書く際に利用された。楔形文字はまたさまざまな民族の間でも用いられるようになり,それは粘土板の上に陰刻された。農業との関連でシュメール人は,天文学も発展させた。太陰暦が使われ,うるう年も設けられた。天文上の円周の分割から始まった60進法が使われ,角度・時間の単位となった。このように政治面のみならず,学問面,とくに実用的な分野が大いに発達したシュメールであったが、絶え間なく戦争が行なわれ,さらに周辺の諸民族の侵入により国土が疲弊し,アッカド人に滅ぼされた。
アッカド人は前24世紀の国王の(2)のとき,メソポタミアの都市群を統一することに成功した。この国王は領土を大きく拡大し,メソポタミア最古の征服者となった。しかしアッカド人の王国も南部都市を中核とする反乱や,東方の山岳民族の侵入により,約1世記後に滅んだ。ついで一時シュメール人が勢力を回復させたが,やがて遊牧民の(3)人がメソポタミアに多数侵入し,前19世紀にはバビロンを都として古バビロニア王国を建国した。そして前18世紀,第6代の王ハンムラビのとき,全メソポタミアを統一した。ハンムラビ王は運河の大工事を行ない,治水・灌漑に努め,シュメール法を継承したハンムラピ法典をつくった。全282条からなるこの法典では,刑法は「目には目を,歯には歯を」という(4)の原則と,身分によって異なった刑罰を科す身分原理にのっとっていた。ハンムラビ王は中央集椎化をはかり,他民族の支配を行なった。ハンムラビ王以降,古バビロニア王国は衰退を迎え,前16世紀初頭に,(5)系語族のヒッタイト人によって滅ぼされた。ヒッタイト人の最盛期は前14世紀で,ミタンニやエジプトと抗争した。前13世紀初頭には,北進して来たエジプト新王国のラメス2世とカデシュの戦いを行なった。ヒッタイトは民族大移動のなか,前1190年頃,バルカン方面から来襲した民族に滅ぼされた。
すでに述べたように,エジプトのナイル川では,毎年氾濫がおこった。氾濫により生じた沃土を利用して農業が発達し,しかもナイル川はまた流域各地を結ぶ交通路として機能した。古代エジプトの歴史はナイル川によって形成されたという色彩が強く,したがって史家(6)の「エジプトはナイルのたまもの」という言葉は,けだし名言と言えよう。ナイル川流域には後世ギリシア語でノモスと呼ばれることになった村落が分立した。ナイル川の治水には住民の共同労働および住民を指揮するための強力な指導者が必要であったので,ノモスを統一する気運が生まれた。やがて上エジプトと下エジプトの二つの王国にまとまり,ついに前3000年頃,メネスによって統国家が形成された。
前27世紀の第3王朝から始まる古王国時代においては,首都は(7)におかれていた。中央集権体制が完成し,古代エジプトは最初の繁栄期を迎えた。そしてファラオと呼ばれる国王が神の化身として君臨する,神格政治が行なわれた。王の力はすこぶる強く,王の墓として知られるピラミッドの存在がそれを示している。ピラミッドは古王国時代の代表的建造物であり,最大のピラミッドは,(8)王のものである。第5王朝では太陽神ラーの信仰が強くなり,国家祭祀の中心は王ではなく太陽神になった。そのため,ピラミッドは小規模になった。
第6王朝ののち,一時エジプトは統一を失ったが,前22世紀に中王国が再び全土を統一した。しかし前17世紀初頭,西アジア系のヒクソスが侵入し,彼らは馬と戦車をエジプトにもたらし,1世紀にわたって,エジプトを支配した。前16世紀、アアフメス世がヒクソスを追放し,エジプトを統一し,第18王朝を開いた。これ以降第20王朝までの約500年間は,新王国時代と呼ばれる。第18・19王朝が全盛期で,対外的にも積極策をとった。トトメス3世は北はシリアやナイル川上流のヌビアを征服し,広大な領土を獲得した。また前述のように,ラメス2世は,ヒッタイト人と喰った。エジプト人は多神政を信仰していた。第18王朝のアメンホテプ4世は,アモン中心の多神教に代え,唯一神(9)の信仰を強制した。しかし急激な変革は内政の混乱をもたらし,彼の死後はアモン神の信仰が復活した。エジプト人は自然現集や天佑,物など人知を心えたあらゆるものに対して神性を認め神格化した。彼らは霊魂不減と(10)神が支配する死後の世界を信じ,遺体をミイラにして保存した。
正解
ジッグラット サルゴン1世 アムル 復讐法 インド=ヨーロッパ ヘロドトス
メンフィス クフ アトン オシリス