ホーフマンスタール
「チャンドス卿の手紙」のこと
ノヴァーリス1772-1801と、
3人のフリードリヒ、
ヘルダーリン1770-1843
ヘーゲル1770-1831
シェリング1775
に沈潜する明け暮れのさなか、堀辰雄、立原道造、福永武彦に導かれて渉猟する詩人たちの饗宴に惑溺する日々が訪れる。
例えば、
Charles-Pierre Baudelaire
1821-1867
Stéphane Mallarmé
1842-1898
Paul Marie Verlaine
1844-1896
Le Comte de Lautréamont
1846-1870
Arthur Rimbaud
1854-1891
Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry
1871-1945
それは紛れもなく快楽悦楽法悦の日々でもあったけれど、屡々当惑と混迷に苦しむ乱脈の日々ともなって、予望や設計や旅程のステージでは只管途方に暮れるしかなかった。
そんな時、二人のエクリチュールが極北の相貌で目前に浮上した。生き延びるためのピアノ線が用意されていたかのごとくだった。
ホーフマンスタールとリルケ
Hugo Hofmann von Hofmannsthal
1874年2月1日
- 1929年7月15日
Rainer Maria Rilke
1875年12月4日
- 1926年12月29日
前者は、
回心とか転回への解法の指針として、
後者は、
どこまでも純化される詩情のゆくたてとして。
リルケについてはあらためて言挙げする機会があるはずなので他日を期すとして、今日が94回目の命日、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールについての報告。
ホーフマンスタールは、日本の明治7年、ウィーンでチェコ出身のユダヤ系家系に出生、祖父がイタリア人の女性と、父親がドイツの農家の女性と結婚しているので、彼にはユダヤ、イタリア、ドイツの血が流れている。幼年期よりギリシア・ラテン文学から中世、ルネサンス文学にいたるヨーロッパの古典文学を学び、ギムナジウム時代から詩作を始め、16歳の頃よりは戯曲や随筆も発表するようになる。このときのホーフマンスタールの詩について、フランス人かさもなければ長い間パリで暮らした40代か50代のウィーン人の作品だろうと思って会ってみたらまだ16歳の少年だったので衝撃を受けて言葉を失った、という年長の作家の証言があり、また、『輪舞』Reigenや『夢小説』Traumnovelleの作家アルトゥル・シュニッツラー1862-1931は、生涯初めて間違いなく天才だといえる人に遭遇したとシュテファン・ツヴァイクに語ったんだとか。
この短いフレーズなどは繰り返し引用されたらしい。
つまるところ
私たちが演じていることはお芝居
心の断片のお芝居
早熟で繊細で悲しい
魂の喜劇
彼は典雅な形式をもつ象徴主義的で唯美主義的な詩の書き手でもあれば、精妙な随筆や成熟した詩論の書き手でもあり、古典古代の悲劇や中世の伝説を翻案して現代性を付与する美しい韻文劇の書き手でもあった。ことに19歳で発表した『痴人と死』などの世紀末的な雰囲気をたたえた韻文劇は文壇、演劇界で名声を博した。
詩「体験」
暗い谷間の 銀鼠の靄と溶け合って
ほのかなわたしの思いはただよい流れた
そして静かに わたしは ゆれ動く
澄みとおった海に身を沈め
人生をはなれた暗く燃え立つ蕚を抽いて
そこに
何と妖しい花が咲いていたことか!
生いしげる植物に
トパーズさながらの樺色の光が
あたたかく流れながらしみ透りきらめいて
この世界全体には 盛りあがる深い音色の
憂鬱な音楽がみちあふれていた
そしてわたしは知っていた
どうしてかわからないが
わたしは知っていた
これは死だ
死が音楽になったのだ
はげしくこがれながら
甘く また暗く燃えながら
この音楽は かぎりなく深い憂鬱のようだと
詩「たそがれの雨」:
道の上をさまよう風は
甘いひびきにみちていた
小暗くかすみながらさざめく雨は
あこがれにしっとりひたされていた
したたり流れ鳴る水は
夢の声をうっとりとかきみだし
夢はいよいよ蒼ざめて
ただよう霧に溶けて行った
ゆれる柳の中の風
岸辺に沿うてさまよう風は
たそがれにひそむ あこがれる
心の悩みを うっとりとゆすっていた
小暗くかすむ夕べの風の吹く
道はどこにも行きつかなかった
それでも さざめく雨の中を
歩いて行くのは楽しかった
戯曲 痴人と死 (1893)
Der Tor und der Tod
終幕(翻訳 森鷗外)
(主人)
誰のためにするでもなく、誰の恩を受けるでもない。(徐かに身を起す。)譬えば下手な俳優があるきっかけで舞台に出て受持ちだけの科白を饒舌り、周匝の役者に構わずに己が声を己が聞いて何にも胸に感ぜずに楽屋に帰ってしまうように、己はこの世に生れて来て何の力もなく、何の価値もなく、このままこの世を去らねばならぬか。何でこれ程の思いを己はせねばならぬのか。何で死が現われて来て、こうまざまざと世の様を見せてくれねばならぬのか。実在のものが儚い思出の影のように見えるまで、真の生活の物事にこの心を動かさねばならぬのか。何故なぜお前の弾いた糸の音が丁度石瓦の中に埋められていた花のように、意識の底に隠れている心の世界を掻き乱してくれたのか。ええ、こうなる上は区々たる浮世の事に乱されずに、何日もお前の糸の音を聞いてお前の側にいるも好かろう。己を死に導いてくれるなら己は甘んじて跟いて行ゆこう。今までの己は生とはいっても真の生ではなかったから、己は今から己の死を己の生にして見よう。死も生も認めぬ己が強いて今までを生といって、お前を死と呼ばねばならぬはずがない。お前は僅か一秒の中に生涯を籠めて見せてくれた。そのお前の不思議な威力に己の身を任せてしまって、今までの影のような生涯を忘れてしまおう。(暫く物を案ずる様子。)思えばこう感じるのも死にかかっての一時の事かも知れぬが、兎に角今までにこれ程感じた事はないから、己のためには幸福だ。このまま死んでしもうても、今我胸に充ちたものは、今までの色も香もない生活には遥かに優っているに違いない。己は己の存在を死んで初めて知るのであろう。譬えば夢を見る人が、夢の感じの溢れたために、眼の覚めるのと同じように、この生活の夢の感じの力で、己は死に目覚めるのか。(息絶えて死の足許に伏す。)
(死)
(首を振りつつ徐かに去る。)思えば人というものは、不思議なものじゃ。解すべからざるものをも解し、文に書かれぬものをも読み、乱れて収められぬものをも収めて、終には永遠の闇の中に路を尋ねて行くと見える。(中央の戸より出で去り、詞の末のみ跡に残る。室内寂として声無し。窓の外に死のヴァイオリンを弾じつつ過ぎ行くを見る。その跡に跟きて主人の母行き、娘行き、それに引添いて主人に似たる影行く。
(幕)
早熟の天才の名を縦にしつつ二十歳台初めにしてこの完成度!ただただ魅了されるばかりだったのだけれど、触れることのできるホーフマンスタールの韻文作品は、ホーフマンスタール二十歳台前半のものまでに限られていた。どうやら彼は1899年25歳頃からほぼ沈黙状態だったことまでは朧げにわかってきたけれど、ホーフマンスタールに何が起きたのか、なかなかその実相がわからないまま時が過ぎる。そのうち激しい非日常の季節に入り、ドイツ文学から遠離る何年かがあった。1970年を超えて少しづつ日常が戻り始めてから、気掛かりだったドイツ文学新文献にあらためて接近してみると、ホーフマンスタールについてのひとつの事実を知ることになった。それは、1902年、28歳のときにホーフマンスタールは、「チャンドス卿の手紙」Ein Briefという書簡形式の散文作品を発表した、というものだった。
その書簡には、16世紀から17世紀の架空の文人フィリップ・チャンドス卿がフランシス・ベイコンに宛て、自分が文学活動を止めるに至った精神的な変化を説明する内容が書かれていて、自らの心的な危機と19世紀末におけるヨーロッパ文化の危機が重ねられた極めて重要な作品だと、どの文献も言及していた。ただ、まだ日本語の翻訳はなく、詳しい文献も見当たらなかったので、伝手を辿って上智大学の独文教室を訪れ、ドイツ語原文やドイツの文芸雑誌ノイエ・ルントシャウDie Neue Rundschau
(『新評論』)のいくつかの論文をコピーさせてもらって辞書首っ引きで読み耽ったりした。
1972年になってようやく『ホーフマンスタール選集』第三巻(河出書房新社)に富士川英郎訳が掲載され、この20ページほどの散文作品がどれほど画期的で重要なものか、がいっそうはっきりすることになる。
荒川洋治の評文があまりに見事なので牽く。
「チャンドス卿はいう。『新説パリス』『ダプネーの夢』『祝婚歌』(これらで名声を得たらしい)を書いた自分は、もういない。これまでと現在の間に奈落があり、橋が架からない。精神、魂、身体といった語をつかうのも苦手。「判断を表明するためには、当然のことながら舌にのせざるをえない抽象的な言葉が、私の口のなかで腐ったキノコのようにぼろぼろと壊れたのです」。四歳になる娘を叱ったとき、「いつも本当のことを言わなければいけないよ、と諭(さと)そうとしたのですが、そのとき私の口のなかに押し寄せてきた概念たちが、突然、玉虫色に光りはじめて入り乱れ、区別がつかなくなった」。「私にはもう、ものごとを単純化する習慣の目で見ることができなくなってしまった」と。
だが、それでも、感動はあるという。「取るに足りない被造物や、犬や、ネズミや、カブトムシや、発育不良のリンゴの木や、くねくね曲がっている丘の荷車の道や、コケの生えた石のほうが」、「あふれんばかりの愛をもって私の目の前で私に迫ってくる」ので、そうしたものをこそ表現したい。でも英語でもラテン語でも書けない。他の言語も同じ。その単語を一つも知らなくても「ものを言わない事物が私に話しかけてくる」、そういう言語でならこの先何かをすることができるかもしれないと述べて手紙は終わる。」
ホーフマンスタールはこの作品の発表と前後してそれまでの典雅な美文の詩や韻文劇を書かなくなり、もっぱら古典の改作による劇や散文を発表するようになった。1902年の時点で、ことばへの不信、文学の危機、詩文の限界を表示した「チャンドス卿の手紙」は、今では、二十世紀文学の原点とされているけれど、ホーフマンスタール自身の切迫した回心とか転回の表白であったのと同時に、紛れもなく九鬼薫にとっても回心とか転回への解法の指針そのものとなった。
この文脈とは別に、ホーフマンスタールとはのちに、リヒャルト・シュトラウスのオペラという全く新しいステージで出会い直すことになる。
リヒャルト・シュトラウスと
フーゴー・フォン・ホーフマンスタール。
20世紀初頭のドイツ語圏における画期的なオペラ作曲家と詩人の共同作業。
産み出された作品は、
『エレクトラ』(1909年)
『ばらの騎士』(1911年)
『ナクソス島のアリアドネ』(1912年)、
『影のない女』(1919年)
『エジプトのヘレナ』(1928年)
『アラベラ』(1933年)
ふたりの協力関係は1906年に始まり、1929年のホーフマンスタールの死まで23年間にわたって続いた。
作曲家と詩人の幸運な出会いはオペラ史のなかでもまれだけれど、モーツァルトとダ・ポンテ、ヴェルディとボーイトの協力関係と並ぶ実り豊かな成果をふたりは生み出した。近代オペラの系統を引きながら、それに対するアンチテーゼを提示し続けたとも言えるふたりの意識は際立っていたと思う。
この日を飾るのは、カルロス・クライバーによる『バラの騎士』以上にふさわしいものはないだろう。
