関心は、Robert Schumann
1810年6月8日 - 1856年7月29日
全く留保のかけらも付かない圧倒的な大天才もいれば、衒いなく偉大巨大を冠するのが当然と思える存在もいる。評価とか意義とか位置付けとかより先ずは無条件に好きが先行する何人かもいれば、特定の作品に惹かれるところ多くても人物にはそこまでの抜き差しにはならない対象もいる。音楽家作曲家の話なのだけれど、その伝で言うと、最も関心を引かれてやまない吸引力の発信源は、唯一無二で、ロベルト、ロベルト・アレクサンダー・シューマン。
ロベルトは、幼少の砌から傑出したピアノ演奏や編曲作曲の才能を示していたけれど、もしかしたらそれに先駆けて、書店、出版社を設立してバイロンの翻訳全集などを出版し、中世を題材にした物語を書き、商業的な論文や雑誌の編集なども手がけたという父親の血を受け継ぐように、文学への接近や文学的なアンテナの起動の方にいち早く資質や感性が反応していたのかもしれない。少なくとも、バッハ、ベートーヴェン、シューベルトと同じくらいは、ゲーテ、シラー、ヘルダーリン、ジャン・パウルから深甚な影響を受けていた。関心を引かれるのはこのあたりの事情によるところも大きいけれど、実はもう三つほど重要なファクターがある。
ロベルトは、客観的な評価の高いたくさんの優れた華麗な作品を遺しているけれど、どこか、天性の才能の赴くまま爛漫に無心に無我夢中に創られた感じがしない。懸命にミューズのあとを追い音楽のイデーを目指し慎重に充全に測られ計られた完全なスコアを書き切った、というような印象を受ける。それは、自ら享受し尽くし自らを駆り立て続け自らの形成成長を促し続けた先人からの恩恵に最も誠実に応答しようとした姿そのもののように見える。さらに言えば、それは全ての形式全てのジャンルにおいて応えようとするかの如くであり、各ジャンル各形式に少なくとも一曲はかたちにして提示したいと生涯を賭けて希ったように思える。もちろんそれとて天凛のしからしめるところなのだけれど、自在にふんだんに湧き出るように作り続けたピアノ曲と歌曲はもとより、見事なオールジャンルオールスタイルに網羅的なラインナップが達成されている。
交響曲 オペラ 劇音楽 オラトリオ レクイエム ピアノ協奏曲 チェロ協奏曲 ヴァイオリン協奏曲 ホルン小協奏曲 管弦楽曲としての序曲 ピアノ三重奏曲 ピアノ四重奏曲 ピアノ五重奏曲 弦楽四重奏曲 ヴァイオリンソナタ 男声合唱曲 女声合唱曲 混声合唱曲 (ピアノ曲)ソナタ 幻想曲 連弾曲 等々々。この壮観は、なにと引き換えに達成されたのだろうか。もちろんこの体系性構築性のあまりの律儀が痛ましいわけではない。途方もなく芳醇にして至純、遥けくも想い溢れる作品群なのだから。
1832年 ロベルト22歳のとき、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に
「諸君、脱帽したまえ、天才だ」
としてショパン1809-1849を紹介する論文を投稿する。
1834年、ロベルト24歳のとき、「新音楽時報」の創刊に携わり、音楽批評として健筆を振い始め、以後10年間にわたって旺盛な音楽評論活動を行う。「新しい詩的な時代」を準備するために低俗なペリシテ人と戦う「ダヴィッド同盟」というコンセプトを創り出したりする秀逸な論陣を構え、「フロレスタン」や「オイゼビウス」といったペンネームで自身の分身を登場させたりもする自在ぶりだった。
1835年8月にライプツィヒで初めてフェリックス・メンデルスゾーン1809-1847に会う。以降二人の交際はメンデルスゾーンの死まで続いたが、ロベルトは、彼を「19世紀のモーツァルト」と呼び、1835年秋、彼がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任して指揮者デビュー演奏会を開いたときは「新音楽時報」誌で絶賛の記事を書いた。
1839年、29歳、イェーナ大学から哲学博士の名誉学位を受ける。
同じく1839年、シューベルトの死後、すっかり忘れ去られてしまっていたシューベルトの自筆譜を発見する。縁あってシューベルト宅を訪れるまで、シューベルトを尊敬はしていても歌曲や小規模な室内楽、ピアノ曲などを演奏する作曲家という認識しか持っていなかったその認識を覆されるような長大な交響曲の楽譜がシューベルトが使っていた仕事机に残されていた。シューマンはぜひこれを演奏したい、世に出したいと楽譜を盟友メンデルスゾーンに送り、彼の指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によって、この交響曲は初演された。
1850年、バッハ協会の設立に参画。
1853年、ヨハネス・ブラームスに初めて会う。ロベルト43歳、ヨハネス20歳。ロベルトはブラームスの作曲家としての優れた才能を認めて「若き鷲」と呼び、メディアに手紙を書いてブラームスを紹介するとともに自ら評論の筆を執って「新しい道」と題した論評を「新音楽時報」に寄せ、ブラームスの天才と輝かしい将来を予言した。
ことほど左様に、ロベルトは、自身の感度で捉えた優れた先達、肝胆相照らすに足る盟友のためには、言葉や筆で進んで世に指し示す労を厭わなかった。時に、自ら以外への献身が優先されがちに見えるほどに。
ロベルトは、10代の頃から指の故障に苛まれ、20代の早くから頭痛や幻聴に襲われるようになり、さらに生涯を通じていわゆる精神障害の頻発に苦しむことになる。ロベルトの病跡には常につまらぬ通俗的なしたり顔の諸説が跋扈しがちで煩いことこのうえないけれど、見るべきことは三つほど。
ひとつは、
失われるもの失われることの無量の無念。
たとえば、
1928年、ロベルト18歳の時、フランツ・ペーター・シューベルト、ウィーンで死去。享年31歳、もっとも尊敬していて弟子入りも考えていただけに衝撃は大きかった。
1847年、盟友フェリックス・メンデスゾーン死去、享年38歳
1849年、フレデリック・ショパン死去、享年39歳。
あまりに若年のこの世からの消失。
ふたつ目、
自らの内部に沸騰するマグマの奔流や鋭敏すぎるほどのキレキレの感覚を飼いながら、知的なミッションと激越なパッションを手放さないでいるときにしばしば訪れるオーバーデューティシンドローム。
三つ目、
狂気を産み育て人心の蹂躙に向かう時代の諸相は、ひとりの稀有な魂を借りて発露され、そのサクリファイスと引き換えに実相が証される。
1854年、ロベルト44歳、ライン川に投身、自裁未遂。
1856年7月29日
167年前の今日、
午後4時、永眠、
享年46歳






