春着はめちゃめちゃ | qqwwzxcのブログ

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 老人は話しつづける。
「小雛も柳橋の芸者だから、家根船に乗るくらいの心得はあったのだろうが、はずみというものは仕方のないもので、どう転んだのか、船から川へざんぶりという始末。これも一旦は沈んだが、また浮き上がると、その鼻のさきへ牛の頭……。こうなれば藁でもつかむ場合だから、牛でも馬でも構わない。小雛は夢中で牛の角にしがみついた。もう疲れ切っているところへ、人間ひとりに取付かれては、牛もずいぶん弱ったろうと思われるが、それでもどうにかこうにか向う河岸まで泳ぎ着いて、百本杭
ぐい
の浅い所でぐたりと坐ってしまった。小雛は牛の角を掴んだままで半死半生だ。そこへ旦那の船が漕ぎ着けて、すぐに小雛を引揚げて介抱する。櫛や笄
こうがい
はみんな落してしまい、春着はめちゃめちゃで、帯までが解けて流れてしまったが、幸いに命だけは無事に助かったので、大難が小難と皆んなが喜んだ。命に別条が無かったとはいいながら、あんまり小難でもなかったのさ。」
「その牛はどうしました。」
「牛も半死半生、もう暴れる元気もなく、おとなしく引摺られて行った。なにしろ大伝馬町の川口屋も災難、自分の店の初荷からこんな事件を仕出来
しでか
して、春早々から世間をさわがしたので、それがために随分の金を使ったという噂だ。さもないと、どんなお咎めを受けるかも知れないからな。自分の軒に立てかけてある材木が倒れて人を殺しても、下手人
げしゅにん
にとられる時代だ。これだけの騒動を起した以上、牛の罪ばかりでは済まされない。殊にこっちが大家
たいけ
では猶更のことだ。」
「そうですか。成程これで、牛と新年と芸者と……。三題話は揃いました。いや、有難うございました。」
「まあ、待ちなさい。それでおしまいじゃあない。」
「まだあるんですか。」
「それだけじゃ昔の三面記事だ。まだちっと話がある。」と、老人はまじめに言い出した。「年寄の話はとかくに因縁話になるが、その後談を聴いてもらいたい、今の一件は天保三年正月の出来事で、それはまあそれで済んでしまったが、舞台は変って四年の後、天保七年九月の中頃……。」ニューバランス 574
「芝居ならば暗転というところですね。」
「まあ、そうだ。その九月の十四日か十五日の夜も更けたころ、男と女の二人づれが、世を忍ぶ身のあとやさき、人目をつつむ頬かむり……。」
「隠せど色香梅川が……。」
「まぜっ返しちゃあいけない。その二人づれが千住の大橋へさしかかった。」
「わかりました。その女は小雛でしょう。」
「君もなかなか勘がいいね。女は柳橋の小雛で、男は秩父の熊吉、この熊吉は巾着切
きんちゃっきり
から仕上げて、夜盗や家尻切
やじりきり
まで働いた奴、小雛はそれと深くなってしまって、土地にもいられないような始末になる。男も詮議がきびしいので江戸にはいられない。そこで二人は相談して、ひとまず奥州路に身を隠すことになって、夜逃げ同様にここまで落ちて来ると、うしろから怪しい奴がつけて来る。それが捕り方らしいので、二人も気が気で無い。道を急いで千住まで来ると、今夜はあいにくに月が冴えている。
 世を忍ぶ身に月夜は禁物だが、どうも仕方がない。二人は手拭に顔をつつんで、千住の宿
しゅく
を通りぬけ、今や大橋を渡りかけると、長い橋のまん中で小雛は急に立ちすくんでしまった。どうしたのだと熊吉が訊くと、一、二間さきに一匹の大きい牛が角を立てて、こっちを睨むように待ち構えているので、怖くって歩かれないという。今夜の月は昼のように明るいが、熊吉の眼には牛はもちろん、犬の影さえも見えない。牛なんぞいるものかと言っても、小雛は肯かない。たしかに大きい牛が眼を光らせて、近寄ったら突いてかかりそうな権幕で、二人の行く手に立塞がっているというのだ。
 うしろからは怪しい奴が追って来る。うかうかしてはいられないので、熊吉は無理に小雛の手を引摺って行こうとするが、女は身をすくめて動かない。これには熊吉も持て余したが、まさかに女を捨ててゆくわけにも行かないので、よんどころなく引っ返して、河岸
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づたいに道を変えて行こうとすると、捕り方は眼の前に迫って来た。そこで捕物の立廻り、熊吉はとうとう召捕りになって、小雛と共に引っ立てられるので幕……。それからだんだん調べられると、小雛はたしかに牛を見たという。熊吉は見ないという。捕り方も牛らしい物は見なかったという。夜ふけの橋の上に、牛がただうろうろしている筈はないから、見ないという方が本当らしい。なにしろその牛のために道を塞がれて引っ返すところを御用。どの道、女づれでは逃げおおせられなかったかも知れないが、この捕物には牛も一役勤めたわけだ。」
「そうすると、四年前の牛の一件が小雛の頭に強く沁み込んでいたので、この危急の場合に一種の幻覚を起したのでしょうね。」
「まあ、そうだろうな。今の人はそんな理屈であっさり片づけてしまうのだが、むかしの人はいろいろの因縁をつけて、ひどく不思議がったものさ。これで小雛が丑年の生れだと、いよいよ因縁話になるのだが、実録はそう都合よくゆかない。」