メンデルスゾーン
2台のピアノのための協奏曲ホ長調
ブルッフ
2台のピアノのための協奏曲op.88a
カティア&マリア・ラベック(p)
フィルハーモニア管弦楽団
セミョン・ビシュコフ(指揮)
録音:1990年4月20、22日、ヘンリー・ウッド・ホール、ロンドン
さて、本日は珍しい2つの「2台のピアノのための協奏曲」を聴いていこう。
(2/28 BOW 330-150=180)
メンデルスゾーン:2台のピアノのための協奏曲ホ長調
『2台のピアノのための協奏曲 ホ長調 MWV O5は、フェリックス・メンデルスゾーンが1823年に作曲したピアノ協奏曲。』である。
メンデルスゾーンは2曲の「2台のピアノのための協奏曲」を残している(それも幼少期に!)ひとつが今回取り上げる1823年に作曲された「ホ長調」の協奏曲。もう一曲は1824年に作曲された「変イ長調」である。2曲とも『彼と同様に優れたピアニストであった姉のファニーとの共演を念頭に置いたものと思われ2人の独奏者に均等に活躍できるよう注意が払われている』とのこと。
この「ホ長調の協奏曲」はメンデルスゾーンが14歳の時に作曲された作品であり、実際に聴いてみると、このような曲を14歳で作曲してしまうということについては驚きである。
実際モーツァルトも若い時に様々な楽曲を残しているのだが、今回このメンデルスゾーンの作品を聴いた印象は正直、モーツァルトの作品ほどには印象に残らない、というのが正直な印象である。だが一方でこの作品はモーツァルトの作品より(それが聴いて印象に残るとは別問題として)「大人びている」という感覚を覚える。
全体的にきらびやかで優雅、雲一つない青空を絵にしたような屈託のない作品となっている。第1楽章などは一瞬、ベートーヴェンの「皇帝」協奏曲を思わせる響きとパッセージが展開される。第2楽章の緩徐楽章もどこまでも温和で優美。第3楽章もピアノの流れるような美しい速いパッセージに魅了される。2台のピアノが『均等に活躍』し躍動する佳作であるといえる。
一方で『素材の弱さの割に曲が冗長すぎるという批判』があるようで確かに一度聴いて口ずさめるような旋律があるわけではなく先述した「印象に残らない」というきらいはある。とはいえ『作曲当時の作曲者の年齢を考慮すれば構成の甘さは無理からぬことである』という記述もあることを踏まえても、やはりモーツァルトは別格で天才だと思わせられるということを、この2台のためのピアノ協奏曲を若くしてメンデルスゾーンが作曲した作品であるということを考えるにあたり逆説的にモーツァルトは別格なのだろうと実感する。
ちなみに、この『「ホ長調協奏曲」は(「変イ長調協奏曲」とともに)1950年に手稿譜がベルリン州立図書館から"再発見"され、1961年に出版されている』とのことである。
ブルッフ:2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 作品88a
ブルッフはドイツの作曲家であり教育者。『ロマン派音楽の中でも古典的な理想を掲げており、フェリックス・メンデルスゾーンやロベルト・シューマン、友人でありライバルでもあったヨハネス・ブラームスへの尊敬は終生変わることがなかった。それに対しフランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーら「新ドイツ楽派」へは明らかな敵意を持っていた。』とありドイツロマン派の流れをくむいわゆる昔気質の作曲家であるといえよう。今日ではヴァイオリン協奏曲が大変有名である。
そのようなブルッフの2台のピアノと管弦楽のための協奏曲を聴いていきたい。協奏曲としては珍しく4楽章制である。はつらつとしたメンデルスゾーンの作風とは一変。第1楽章の冒頭は厳かで重厚なピアノの旋律に管弦楽が導き出される冒頭は深みに満ちその後続く厳かな旋律はバッハのパッサカリアを思わせる。
もともとこの協奏曲はオルガンと管弦楽のための組曲第3番を改変されて作られた楽曲でありこのオルガンのための作品はブルッフがイタリアのカプリ島で療養中の1904年にホテルの部屋の窓から見て耳にした復活祭前の聖金曜日の祭りの行列で演奏された旋律にインスピレーションを得て作曲された。第1楽章はこの行列の宗教的色彩感の強い旋律をもとにしている。
アタッカで続く第2楽章は冒頭、第1楽章の厳かな雰囲気を引きずりながら次第に快活なテンポにのりきらびやかで華やかな旋律でピアノが躍動していく。これぞドイツロマン派の中心をいく音楽となっている。
第3楽章の緩徐楽章はメンデルスゾーン同様「温和で優美」であるが圧倒的なダイナミズムを持ちスケールの大きい雄大な音楽となっている。それはのちのラフマニノフやマーラーの緩徐楽章で聴かれる耽美で甘く官能的な世界の片鱗第を感じることができる音楽であるといえよう。
第4楽章では再度、第1楽章冒頭で聴かれた宗教的な色合いのある印象的な旋律がピアノで堂々と奏でられ、壮大な音楽がとめどなく流れていき時にピアノが主導し時にピアノが旋律の合間を流れるように繋いでいく。ドイツロマン派のど真ん中を行く見事な音楽である。
さてこの「2台のピアノと管弦楽のための協奏曲」はこのような美しい音楽の裏側に人間の醜さを感じざるを得ないエピソードを持っているので紹介しておこう。
『1911年、ブルッフはアメリカのピアニストスートロ姉妹が彼の2台のピアノのための幻想曲 ニ短調 作品11を演奏するのを聴いた。これに大層気をよくした彼は姉妹へ二重協奏曲を作曲することに』なった。『しかし、姉妹はブルッフの許諾を得ずに曲を自分たちの演奏技巧に合うように書き換えた上、その改変版の著作権登録を行って(中略)姉妹はこの改変版を1916年12月29日にレオポルド・ストコフスキーの指揮でフィラデルフィア管弦楽団と初演している。1917年には曲にさらなる改変を行い、楽章の数を4から3へと減らし、ジョセフ・ストランスキー指揮、ニューヨーク・フィルハーモニックと演奏を行った。(中略)2人は改変版に手を加えることを続けていき、1961年に妹のオッティリーが最後の変更を行うまでの間に数えきれない改変が施された。』
オッティリーの没後、ピアニストのネイサン・トワイニングが彼女の遺した遺品を取得。ブルッフの2台のピアノと管弦楽のための協奏曲の楽譜が見つかる。ここでようやく本作がスートロ姉妹によって改変されていることが判明した。オリジナル版の管弦楽パート譜を入手したトワイニングはその後『マーティン・ベルコフスキーと共にブルッフのオリジナル版を再構築し、アンタル・ドラティの指揮、ロンドン交響楽団の伴奏で1973年11月に初録音を果たしたのであった』
ところがこともあろうにオリジナルを復元したトワイニングとベルコフスキーはブルッフのオリジナル版の楽譜の著作権をめぐり争うこととなる。
この争いによって、またもや(オリジナル版が)お蔵入りとなるかと思われたが幸いにもそうはならなかった。
指揮者のセミヨン・ビショコフはロシア出身の指揮者。レニングラードの医者の家に生まれ、19歳でレニングラード音楽院を首席で卒業。1973年にラフマニノフ指揮者コンクールで優勝し、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の指揮を打診されるが、政治信条を理由に1974年にソ連から亡命する。1983年に米国市民権を取得し実質上の政治亡命を行う。その後のキャリアは輝かしいものとなった。であった。『1989年から1998年までパリ管弦楽団の音楽監督に就任し、その後ケルンに移り、ハンス・フォンクの後任としてケルン放送交響楽団の指揮者に就任した。2017/18年シーズンからはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に、イルジー・ビエロフラーヴェクの後任として就任した。』
ビシュコフの妻はこのCDでピアノを演奏しているフランス出身のピアニストのラベック姉妹の妹であるマリエル・ラベックである。姉のカティア・ラベックと息の合った演奏を聴かせてくれている。
以上『』内はすべて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用。
