兵庫姫路書写 円教寺①千年灯し続けられた灯明

 

円教寺の始まりは性空上人

きびしい修行をのりこえた聖です

九十八才で亡くなった日から千年

灯明は今日までつづいています

 

 今日も灯をともします

 

 書写山の灯は千年

 

巡礼歌集より

 

花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形は徳において欠けたところがなく、人間として最も成就した状態を象徴していることから、自己完成の道を教える寺ということになる。性空と結縁した法皇は、性空の姿に崇高な僧侶本来の姿を見たのであろう。
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九州の霧島山で修行した性空上人は霊地を求め、この地にきたところ、紫雲がかかっている書写山を見て、この山に入り康保3年(966年)に草庵を開いたとされている。

性空は出家した時はすでに36歳であり、それから約20年間、霧島山脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求めて旅に出、康保3年(966年)、57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるという性空の生年については「性空上人伝記遺続集」によれば延喜10年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出であったという。

 


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参道が終わると正面に巨大な舞台造りの「摩尼殿」が見える

摩尼殿は天禄元年(970年)の創建とされている。かつて、この場所に桜の木があり、その木に向かい天人が礼拝しているのを見た性空上人は、根のあるままの生木の幹に如意輪観世音菩薩を刻み本尊としたという。
この本尊を安置する摩尼殿は、その桜の木の上に築いたため、山の斜面に寄りかかった舞台造りになったといわれている。

 


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摩尼殿内部 本尊は如意輪観世音菩薩 西国三十三箇所第二十七番札所

 

『遺続集』、『元亨釈書』、『今昔物語集』などにによると、性空は俗事を厭い、栄華や名声に関心がなかったが、都の皇族や貴顕の崇拝が篤かったという。中でも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)来山して圓教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに大講堂を建立したという。花山法皇以外にも、後白河天皇、後醍醐天皇など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立がおこなわれている。

 

武蔵坊弁慶は一時期書写山で修行したとされており、机など、ゆかりの品も伝えられ公開されている。ただし史実である確証はない。一遍、一向俊聖、らが参詣したことでも知られる。


次週は 兵庫姫路書写 円教寺② ラスト・サムライたちは・・・