大阪奥河内 観心寺 ⑤楠木正成のつらぬかれた生涯と朱子学
楠木正成は、 観心寺の南公学問所で、8歳から15歳までの間に学びました。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。
山門を入って納経所の向こうを左へ
鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。明治移項降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年には正一位を追贈された。
境内よりの山門
醍醐天皇は観心寺を厚く信任され、建武新政後(1334年頃)、 楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、 現在の金堂ができた。正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願する。
中院門
こちらが楠木正成が学んだ場所、塔頭中院。楠公学問所の標識があります。
楠木正成はここで8歳から15歳までの間を過ごし、学問に打ち込んだと言います。
楠木公学問所 中院 石碑
兵法については、観心寺から一里ほど離れた場所にいた軍学の大家、大江時親に師事。大江家に伝わる兵書を読みふけり、『孫子』や『六韜三略』などの軍書を学ぶ。
13歳のときに初陣。八尾氏と戦い軍略を発揮、これを打ち破っています。
中院内部台所
ちなみに中院は楠木正成が学問を学んだ場所だけでなく、湊川で戦死した正成の首級が送り届けられたとき、長男である正行が自決しようとした場所とも言います。
後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。
朱子学の思想は、近代日本にも影響を与えたとされる。
1890年(明治23年)、『教育勅語』が下賜されると六諭は近代日本の道徳思想として本格的に採用された。
軍部の一部では特に朱子学に心酔する者が多く、二・二六事件や満州事変にも多少なりとも影響を与えたといわれている。
観心寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になっている、境内は 史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。
境内図 山門入って左に学問所中院
国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展している。
大阪奥河内 観心寺おわり・・・
次週は 大阪奥河内 金剛寺 ① 奥河内の古寺を巡る 南北朝時代の行在所です
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