兵庫県太子町 播州斑鳩寺 ⑤ 仏教伝来「わが国仏法の初め」

 

 

わが国で仏教が拡がったのは、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国(兵庫県南西部)にいた恵便(えべん)という僧を師としたことから始まることが『日本書紀』に記されている.。

恵便ゆかりの寺として加古川市の鶴林寺がある。.

東門
六世紀後半の敏達朝において、わが王権は、まだ播磨をも領せざる一地域権力であった。当然、播磨は、我が国とは別国、ないし別国に属する地であった
 

 

東側には水路があり石橋がかかっている

仏法が別の国からわが国に伝わって、僧(尼)の供養が行われはじめたときをもって「仏法の初め」と称すると日本書紀にある。
 



石の門柱を通って境内へ

仏教が拡がりはじめた6世紀の終わりごろは、わが国はまだ統一国家ではなかったらしい。


 

この頃の播磨の地は、大陸からの渡来人が多く移り住んでいて、そのなかに仏教の僧侶を経験した恵便 (えべん)のような人物がいた。

 



鐘楼
その
恵便 を蘇我馬子が仏法の師とし、さらに聖徳太子が訪ねて鶴林寺の前身である四天王聖霊院が建てられたということなのだろう。



手水舎
そして播磨には、ほかにも聖徳太子
時代の寺院がある。


三重塔
「斑鳩(いかるが)」というと、誰しも奈良県の
法隆寺 のあるあたりを連想するところだか、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)に「斑鳩寺 」というお寺がある。

 



太子町」という町名は、もちろん聖徳太子にちなんだ名前だ。
 



推古天皇が聖徳太子 に播磨の国の水田百町を賜ったことは日本書紀巻第二十二に記されている。

 

 

 

納経所の奥に弥勒堂

もしかすると聖徳太子が推古天皇よりこの地を授けられたことにより、この播磨の地に斑鳩寺が創建されたということではないか。
 


弥勒堂の様子

日本書紀では「秋七月、天皇請皇太子、令講勝鬘經。三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮。天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺。」となっており


納経所
聖徳太子はその播磨の土地を「斑鳩寺」に納めたとある。




宝物殿には日光・月光菩薩立像(国重文)、十二神将立像(国重文)、聖徳太子勝鬘経御講讃図(国重文)など貴重な仏像・仏画などが展示されている。

 



当寺は太子ご創建から1千年間は大和法隆寺  の末寺的存在であったが、火災再建後天台宗となる。


兵庫県太子町 播州斑鳩寺おわり・・・