兵庫県太子町 播州斑鳩寺 ② 聖徳殿は法隆寺の夢殿に似せた八角形

 


聖徳殿に祀られている本尊は、聖徳太子自身の像といわれ、聖徳太子の父、用明天皇が病気になった時、7日間断食して回復を祈り、常行三昧の作法により太子自らが刻んだものとされている。

仁王門をくぐって左手に聖徳殿。

日本書紀の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨 から大和に伝わった記録がある。「播磨 」は今の兵庫県の南西部にあたる地域のことである。 このことは大和よりも先に播磨 に仏教が伝わっていたことを意味している。

 

 

聖徳殿前殿

聖徳太子十六歳孝養像を安置する伽藍。天文10年の全焼後、一番最初に再建されました。江戸時代の寛文5年(1665)に再築される。

明治43年から、大正5年にかけて従来の太子堂に、法隆寺夢殿を模した奥殿(八角二重円堂)・中殿が増築された。

 


正面から見た聖徳殿はそう大きな建物には見えないが、奥行きのある建物で八角形の奥殿につながっている。


 

聖徳殿の正面から入ると格子戸がある。これより聖徳殿の内部に入ることはできない。
わが国の仏教の広まりは、日本書紀に明確に書かれているとおり、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便(えべん)という僧を師としたことから始まるのである。

 

 

格子の向こう側

仏教は容易には広がらなかった。翌年の敏達天皇14年(585)には排仏派の物部守屋が「蘇我氏が仏教を広めたことで疫病が流行した」と奏上し、敏達天皇はその言い分を認めて「早速仏法をやめよ」との詔を出しておられる。

 

 

奥殿は八角円堂であり、大和法隆寺の夢殿に似せた造りである。これは、当寺の開基が聖徳太子であることに由来しているのであろう。

そこで物部守屋らは仏像と仏殿に火をつけ、さらに善信尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち:奈良県桜井市)の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭打つ刑にしたと日本書紀に記されている。
 

 

聖徳殿の本尊、聖徳太子像はこの聖徳殿の奥殿に祀られているものと思われる。

仏教の受容をめぐる蘇我氏と物部氏との対立はその後も続いて、587年の丁未の役で蘇我馬子が武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着した。

 

 

八角形の奥殿の屋根が見える。

その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位(593年)してようやく仏教受容に対する抵抗勢力が消滅して、わが国に仏教が急速に広まっていくことになる。
 

 

次週は 兵庫県太子町 播州斑鳩寺 ③ 植髪太子像を祀る八角円堂の聖徳殿 です