兵庫県赤穂 花岳寺 ⑤ 吉良上野介の実像


 

三河国幡豆郡吉良庄(みかわのくにはずぐんきらしょう)(愛知県西尾市)の領地では逆に、水害を防ぐために堤を築かせ、新田開発に力を入れるなどの善政をしいた名君とされています。


吉良上野介像

高家のような旗本は、参勤交代がなく、江戸に常住して領地は代官に任せるのが一般的でした。そのため、上野介も領地を訪れた形跡はほとんどなく、築堤・新田開発の指揮をはじめ、領民に接する機会はなかったと思われます。



花岳寺寺務所

吉良家の菩提寺である華蔵寺に梵鐘や経堂を寄進するなど、信心深い人物であり、茶の湯や和歌をたしなむ風流人でもあったようです。



吉良氏は、室町幕府将軍足利一族に連なる名家で、戦国期に松平氏(徳川氏)と密接な関係を築き、江戸幕府で儀式・典礼を司る高家のひとつとなりました。

 


二代目大石名残の松

寛永18年(1641年)、吉良家に生まれた吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、「高家肝煎(きもいり:最高責任者)」として、幕府と朝廷の間を取り持つ職にありました。



山門を出る

大名たちに横柄な態度で接することが多く、むやみに人の物をせびるような言動もあったと伝えられています。

 


「赤穂事件」を記した『江赤見聞記』には、以前饗応役を務めた人物から浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、上野介は欲の深い人だから進物を送ったほうがいいと助言された。



山門前通り

その際、「お役目が無事終わればいくらも進物を送るが、前もって何度も送るのはどうかと思う」と返答したという記録が残されています。



真直ぐ赤穂城

諸大名からの評判は、必ずしもよくなかったようです。



江戸に到着した勅使や院使をもてなす「饗応役」は、幕府と朝廷の関係を良好に保つための重い責任が課せられた任務でした。

 


山門を出て左

この役目を申し付けられたのは、3万石から10万石の外様大名でした。

御馳走をふるまう、高価な進物を贈るなど、饗応には莫大な費用がかかりました。さらに、饗応の礼儀作法の指南役として付く高家に対しても、高価な指導料が必要でした。

 


花岳寺通商店街も赤穂義士一色

饗応役に外様大名を指名したのは、金を使わせて蓄財を削ぐという幕府の意図があったとされています。


 

兵庫県赤穂 花岳寺おわり・・・

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