兵庫県赤穂 花岳寺 ② 仇討ちと武士道 浪人から義士へ


殿中の刃傷において、浅野家は取りつぶされ、領地も没収されてしまいます。主家を失った家臣たちは、浪人[流浪の身]となって城を離れますが、討ち入りによって、彼らへの評価は大きく変わります。浪人たちは、義士と呼び直され、死後もたたえられることになりました。

 

赤穂藩浪人たちによる討ち入りをどう扱うべきか、忠義を奨励していた当時の幕府や儒学者のなかで、意見は大きく分かれます。
 

 

千手堂(休憩所) 奥は報恩堂。

義挙(ぎきょ:正義のための行い)として浪人たちを助命すべきだとする声がありました。


 

千手堂には「初代大石名残の松の幹」を展示。

逆に、江戸城内の刃傷(にんじょう:刀で人を傷つけること)に対する幕府の裁定を不服とし、許可を得ないまま徒党を組んで討ち入ることは死罪に値する、という者もいました。


 

拝観受付 

1ヵ月以上に及ぶ長い議論を重ねたすえ、浪人たちは切腹を命じられることになります。


 

拝観料400円を払って内部に入る。


 

墓所や義士宝物観などが拝観できる。
 



忠義塚の北側に浅野家廟所が建っている。
大正7年(1918年)に赤穂浅野家の本家筋にあたる広島の浅野家の寄進により建てられたとされている。
廟所中央には初代赤穂藩主、浅野長直公の木像が祀られ、その横に、赤穂の代々の藩主をつとめた浅野家の人々の像、それに赤穂四十七士の位牌などが祀られている。




高松宮宣仁親王御手植松
 

 

この桜は天和3年浅野長矩公婚姻のおり、大石内蔵助が三次の姫の菩提所鳳源寺に植樹の枝垂桜を株分けしたもの。

 

 

宝物館前。

 

 

義士木像館前。中国より渡来の1500年前の舟後光観音石像。

 

 

次週は 兵庫県赤穂 花岳寺 ③ 世間が贈った義士の呼び名 です