京都 大報恩寺千本釈迦堂 ⑤  「おかめ塚」とともに800 年伝承の「おかめ福節分会」

 

千本釈迦堂のおかめ福節分会は、本堂建立に功労のあった棟梁・長井飛騨守高次の妻「阿亀」にちなむもので、境内に残る「おかめ塚」の前で法楽が行われます。

当日は、年男や女性たちがおかめの輪袈裟を身につけ面をつけて、本堂で加持を受け、法要を終えると茂山狂言社中によるユニークなおかめ福節分の狂言があり、そのあと厄除け鬼追いの儀として、豆まきが行われます。


大報恩寺の本堂建築の際に、内助の功で夫の大工棟梁「高次(たかつぐ)」を助けながらも、なお夫の名誉を汚さないようにと自害してしまった妻「おかめ」に因んで建立された「おかめ塚」とともに800 年近く伝承されて来た行事が「おかめ福節分会」

 

法要の前には番匠保存会による木遣音頭・上七軒の舞妓によりおどりの奉納もあります。
こうして、おかめの貞淑と福徳円満、縁結び、お多福招来を祈願し、一年の厄除けを行います。
毎年、多くの参拝客で賑わう大報恩寺の節分にお参りしてはいかがでしょう。



本堂西南に北野経王堂ある。
明徳の乱で敗戦死した山名氏清を弔うため応永8年(1401年)に足利義満が内野に建てたといわれる。後に解体縮小してここに移された。



明徳の乱は足利三代将軍義満が、明徳2年(1391)、陸奥大守山名氏清が将軍家に叛いて兵をあげた。合戦は京都内野で行われ、有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した。


将軍義満は、その翌年、命に叛いたとはいえ、山名家の功労武勲を思い、氏清とその一族、また戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、1100名の僧侶を集めて供養した。



引き続き応永8年(1401)に北野社の社頭に、三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け十日間にわたって万部経会並びに経典書写などの仏事を行い供養した。この行事は「北野経会」と呼ばれる京の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。


北野経王堂の前に不動明王堂がある。



山名氏清、山名宗全の念持仏の不動明王尊を祀るという。



稲荷社 建長2年(1250)第二世如輪上人が賀茂・春日・石清水・日吉・今宮の五社とともに勧請した。


本堂前境内 右おかめ桜 
 

次週は 京都 大報恩寺千本釈迦堂 ⑥ 通称千本通りの釈迦如来に由来 です