大阪奥河内 弘川寺 ⑤ 西行終焉の地「歌は即ち如来の真の姿なり」

 

1189年(71歳)、西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。同年、西行は大阪河内の山里にある、役行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。


665年、役小角によって創建されたと伝えられ、676年にはこの寺で祈雨法が修せられて天武天皇ら山寺号が与えられたという。


平安時代の812年空海によって中興され、1188年には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願している。翌、1189年には空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している.。


本坊よりの中庭。塀越し借景の山々。金剛葛城山方面。

1463年兵火により焼失したが、江戸時代に入り歌僧似雲(1747年~1750年)がこの寺を訪れ、西行堂を建立している。


玄関の間

悟りの世界に強く憧れつつ、現世への執着を捨てきれず悶々とする中で、気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。

 

同時代の藤原定家らのように技巧的な歌に走るのではなく、あくまでも素朴な口調で心境を吐露した。自然や人生を真っ直ぐに見つめ、内面の孤独や寂しさを飾らずに詠んだ西行の和歌は、どこまでも自然体だ。

宮廷の中ではなく山里で歌を詠み、ある時は森閑の静けさに癒され、ある時は孤独の侘しさに揺れ動きながら、源平動乱の混沌とした世界にいて、自分の美意識や人生観を最後まで描き出した。


500年後の芭蕉を始め、後世の多くの歌人たちが、西行の作品をその人生と合わせて敬慕してきた。


中庭の天然記念物カイドウ(海棠) 開花の時期はまもなくらしい。


鎌倉期には『新古今』に最多の作品が入選し、日本全国には146基も歌碑が建立されている。西行は800年の時を超え、今なお人々の心を捉えて離さない。

「水の音はさびしき庵の友なれや 峰の嵐の絶え間絶え間に」
峰から吹き付ける強風の中に、時々聞こえる川の音は寂しい庵の友なのだ


「ひとり住む庵に月のさしこずは なにか山辺の友にならまし」
独り寂しく住む庵に差す月の光は、まるで山里の友のようだ

 

「花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける」
桜の花を見ると、訳もなく胸の奥が苦しくなるのです


「春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける」
思えば60年余り、春ごとに桜に心を慰められてきたんだなぁ

 


「吉野山花の散りにし木の下に とめし心はわれを待つらむ」

吉野山の散った桜の下に私の心は奪われたまま。あの桜は今年も私を待っているのだろう

 

大阪奥河内 弘川寺 おわり・・・

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