大阪奥河内 弘川寺 ④ 花を愛でた歌人 西行の魅力


「北面の武士」でありながら、妻子を捨てて仏門へ入り、諸国を行脚しなら印象に残る歌を読み続けた、数寄者の歌人「西行」の魅力。

 

出家直後は郊外の小倉山(嵯峨)や鞍馬山に庵を結び、次に秘境の霊場として知られた奈良・吉野山に移った。西行は長く煩悩に苦しんでおり、いわゆる聖人じゃなかった。彼は出家後の迷いや心の弱さを素直に歌に込めていく。

 

「いつの間に長き眠りの夢さめて 驚くことのあらんとすらむ」
いつになれば長い迷いから覚めて、万事に不動の心を持つことができるのだろう



まさに平安時代末からの源平の争乱の時期を生きた人。

武家の生まれで、鳥羽院の北面の武士としても仕えた佐藤義清は、23歳で出家して草庵に住し、陸奥や吉野、四国などを行脚しながら、たくさんの印象的な歌を残しています。

花を愛でた歌が有名で、吉野山の桜を詠んだものは素晴らしいものがある。

「吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりにき」

吉野山の花をはるか遠くから望み見たその日から、私の心は花でいっぱいになって落ち着かない。

「なにとなく春になりぬと聞く日より 心にかかるみ吉野の山」

春が立ったと聞いたその日から、どういうわけか吉野山が気になって仕方ない。もう霞は立っただろうか、花は咲いたっだろうか、と。

「願はくは花の下にて春死なん その二月の望月のころ」


私は春、花の下で死にたい。願わくは、釈迦入滅の二月十五日のころに、満月の光を浴びた満開の桜が、私と私の死を照らし出さんことを。


しかし、その生涯を追ってみると、決して気ままに日本中を旅していたのではなく、武家の出で天皇家にも通じ、歌人としても有名だった方だけに、政治的な使命を帯びての旅も多かったのだとか。

 

晩年になって2回目の奥州入りをしたのも、奥州藤原氏へ源平の争乱で焼失してしまった東大寺の大仏の勧進を行うためだったとか。奈良の大恩人でもあったようです。



もとは武士でしたが出家し、月と花を愛する漂白の歌人として全国を旅し、吉野山にも何度も入山していました。


弘川寺境内。紅葉谷もあるようです。


坂を下って右側が見事な庭園の弘川寺本坊へ

 

次週は 大阪奥河内 弘川寺 ⑤ 西行終焉の地「歌は即ち如来の真の姿なり」 です。