(=^_^=) ニィ 大阪奥河内 弘川寺 ③ 西行 捨てて生きる
 

武家の生まれで、鳥羽院の北面の武士としても仕えた佐藤義清は、23歳で出家して草庵に住し、陸奥や吉野、四国などを行脚しながら、たくさんの印象的な歌を残しています。特に花を愛でた歌が有名です。

 

まさに平安時代末からの源平の争乱の時期に生きた人。、


その生涯は、決して気ままに日本中を旅していたのではなく、武家の出で天皇家にも通じ、歌人としても有名だった方だけに、政治的な使命を帯びての旅も多かったのだとか。


晩年になって2回目の欧州入りをしたのも、奥州藤原氏へ源平の争乱で焼失してしまった東大寺の大仏の勧進を行うためだったとか。


正面が西行墳。周りは山桜がいっぱい。

山桜は原種で葉っぱと花が同時に出る。一面の花になるソメイヨシノなどは改良品種です。

「西行墳 西行(円位)上人は晩年空寂座主の法徳を慕いて登臨され、文治六年二月十六日七十三歳当寺において入寂されました。」


西行墳墓石 かろうじて「西行上人之墓」と読み取れる

似雲法師の墓。1732年(享保17年)似雲法師は、西行の墓をこの寺に尋ね当て、当山の境内に「花の庵」を建てて住み、自らも81歳でここに没した。


「以雲墳 江戸時代中期広島の歌僧以雲法師は西行を慕い、その終焉の地を求めて、子の地に西行の古墳を発見しました。その後、西行墳の周辺に千本桜を植え、その中に「花の庵」を建てて住み、西行堂を建立し、生涯を西行追慕にささげました。」


今も山一面の千本桜。


 

次週は 大阪奥河内 弘川寺 ④ 花を愛でた歌人 西行の魅力 です。