大阪奥河内 弘川寺 ② 花を愛した西行が隠棲したところ

 


弘川寺は天智天皇4年(665年)に役小角(えんのおづぬ)が32歳のときに草創。 金堂・講堂・宝塔・鐘楼などができ、境内には5つの霊泉(瑠璃水・隠水・三天水・赤龍水・白龍水)があるそうです。


天平9年(737年)に行基がここのご本尊からの霊応を感じ、一夏の間 ここに滞在。

後鳥羽院上皇が病気になったときに空寂上人がお祈りしたところ病気が治る。

後鳥羽院上皇が来られて「山深みこのはの下の隠し水なかれの末は滝つ瀬の音」と詠む。



西行堂 裏山を少し登った高台にある
西行上人(歌聖西行とも呼ばれる)は晩年に空寂上人を慕ってここに来る。


「願はくは花の下にて春死なん その二月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ」

 

(私は春、花の下で死にたい。願わくは、釈迦入滅の二月十五日のころに、満月の光を浴びた満開の桜が、私と私の死を照らし出さんことを。)

 

有名な歌ですが、実際に1190年2月16日、桜が満開の満月の日、釈迦の涅槃の一日後に亡くなったのだそうです。


河南町の中心部を遠くに望む。今も桜が多く、春は美しい。

「年たけて 又越ゆべしと思ひきや 命なりけり 小夜の中山」

西行堂の傍らにある川田順の筆になる西行の歌碑。


年老いてから、この山をまた超えることができると思っただろうか、小夜の中山を越えることができるのは、命があるからこそだ。

さらに裏山を登ります。

享保17年(1733年)に今度は西行上人を慕って、当時和歌で名が知られ今西行と呼ばれていた歌僧似雲法師がここに庵(花の庵)を建て住みます、この似雲法師は広島の方で姓を松井とおっしゃるそうです。



次週は 大阪奥河内 弘川寺 ③ 西行 捨てて生きる です。