大阪奥河内 弘川寺 ① 西行が愛した寺「願はくは花の下にて春死なん」

 

この季節になると訪れたくなるお寺。

665年役小角よって創建と伝えられ、平安時代の弘仁3年(812年)空海によって中興され、文治4年(1188年)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願している。翌、文治5年(1189年)には空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している。


西行記念館 弘川寺境内

多くの西行像や西行にまつわる絵画、書、資料などを展示。


西行は、晩年伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺に庵居し、1190年にこの地で入寂した。享年73。


かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ和歌のごとくとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼んだ。


五木寛之の一言

古い歴史を持つ弘川寺を今日まで息づかせてきた信仰の背後にあるもの。その大きななにかを求めた一人が、西行だったと言えるかもしれない。


 

近鉄富田林駅から路線バスで約20分。「願はくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ平安時代末期の歌人・西行がその歌の通り、桜の季節に生涯を閉じた地として知られる。


弘川寺 古図

名峰葛城山の麓にあり、寺の周辺は桜の名所として有名で「大阪みどりの百選」に選ばれている。

天智天皇四年(665)、役小角が自ら彫った薬師如来を本尊として開創した古寺。天平9年(737)、行基がこの寺で修行し、弘仁3年(812)、空海が伽藍を一新したと伝えられる。


西行の旅 山家集関連地図

1146年(28歳)、東北地方に歌枕(和歌の名所)を訪ねた。初めての長旅だ。平泉に本拠地がある奥州藤原氏は西行の一族。一冬を過ごし、過ぎ行く年の暮れに次の歌を詠む。
「常よりも心細くぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる」
いつもの年より心細く感じるなぁ。旅の空の下で年が暮れていくよ


西行の足跡

1149年(31歳)、旅から帰った後は真言霊場・高野山に入って庵を結ぶ。当時の高野山は落雷の火災で大きな被害を受けており、復興の為の寄付(勧進)を各地で集めて周る僧・高野聖(ひじり)が多く集まっていた。西行も彼らに加わり、出入りを繰り返しつつ約30年間を当地で過ごす。

1168年(50歳)、保元の乱で讃岐に配流され、4年前に無念を叫びながら死に、朝廷にとって菅原道真と並ぶ大怨霊となった崇徳上皇(西行がフラレた妃の子)の鎮魂と空海の聖地探訪の為に四国を巡礼する。

弘川寺は、兵火に遭い一時は焦土と化したがその後、復興。多くの堂舎はもとの位置に近い場所に再建され、現在に至る。


西行終焉の地として知られる寺に咲く1500本の桜

平安時代末期の歌人・西行が桜の季節に生涯を閉じた地として知られる。西行墳・似雲墳奥の桜山では、周遊路から約1500本の桜が楽しめる。例年4月中旬には本坊庭園にある天然記念物のカイドウが見頃。また、本坊庭園拝観と西行記念館が見学できる。

 

次週は 大阪奥河内 弘川寺 ② 花を愛した西行が隠棲したところ です。