大阪摂津 川西満願寺② すべての願いが叶う満願寺の仏の功徳 新西国13番

 

創建は奈良時代の神亀年間(724年~728年)と古く、源氏一門の祈願所とされていたそうです。千手観音像、九重塔など国・県指定文化財が多く伝えらています。書院の庭園には、ツツジやサツキが数多く植えられており、5月から6月にかけてはそれらの花が満開となり、見応えがあります。この季節には、ハイキングに向いています。

この寺の「山門」は他の寺では見ることのできない珍しい形をしている。明治14年(1881年)に再建されたものといわれている。

 山門をくぐり参道を進むと、途中100円の入山料を入れる箱が置いてある。のんびりした山門風景です。

 

長い階段がつづく。 清荒神から中山連山をハイキング。その途中にある。

 

参道の突き当たりに石段がありそれを上ると広場がある。その正面に見える建物が「金堂」。

 

金堂」には「木造十一面観音菩薩立像」、「木造聖観音菩薩立像」などが安置されているようである。

 

この「木造十一面観音菩薩立像」は平安時代末期、「木造聖観音菩薩立像」は平安時代前期末の作とされており、共に兵庫県有形文化財に指定されている。

 

源 頼光(みなもと の よりみつ)は天暦2年(948年)に生まれました。
平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍 源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。満仲の長子で清和源氏の3代目になります。

 

 

源 頼光(みなもと の よりみつ)

 

仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれていました。異母弟には大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいます。

 

頼光は満仲と同じように摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職で財力を蓄えました。寛仁元年(1018年)3月、頼光は大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王ら、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武、藤原保昌などの強者の家臣の6人とともに摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行います。

成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書が残されています。

 

鬼退治伝説の意味

大江山では鉱山技術により富を蓄積していた。これに目を付けた都の勢力は兵を派遣、富を収奪し支配下に置いた。このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかとする説もあり、帰化人が山賊化し非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もある。なお、具体的な鬼退治伝説としては、「酒呑童子伝説」、「日子坐王の鬼退治」及び、「麻呂子親王の鬼退治」が有名である。

 

 

次週は 大阪摂津 川西満願寺 ③ ・・・多田源氏ゆかりの地 新西国13番