大阪摂津 東光院萩の寺④ 萩の庭に集う 隠岐島のあごなし地蔵

 

廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる明治2年、隠岐島の伴桂寺が廃仏に遭ったおり、千年にわたって全国的に厚い信仰を集めていた小野篁(おののたかむら)卿正作のあごなし地蔵尊像を師寮寺である東光院へ逃げてきました。

隠岐島のあごなし地蔵尊の遷座

「あごなし地蔵尊伝来本縁起」によれば、平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。

 

あごなし地蔵大菩薩三尊像

掌善(しょうぜん)・掌悪(しょうあく)の二童子を左右に配し、50年に一度開帳される当山所蔵の秘仏です。

 

阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。

その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています。

 

小野篁(おの の たかむら)802年~853年。 平安時代の歌人、官人で、小野妹子の子孫であり、小野小町のおじいさん(諸説あり)と言われている方です。

この方は遣唐副使だったんですが、いろいろ憤りがあって仮病で遣唐使を拒否したりなどなどで、当時の天皇にお叱りを受けて隠岐へ配流となりました。

 

隠岐のあごなし地蔵道 

この阿古那が篁からいただいた2体の像が安置されているのがこのあごなし地蔵尊です。「あごなし」という名前は阿古那が訛ったとも言われています。そして、上記のエピソードから、歯痛にご利益があるとされています。

 

東照閣仏舎利殿・あごなし地蔵堂 仏舎利を納めた孔雀宝座

寛文5年(1665)12月完成上棟〈九昌院主光意代〉、旧川崎東照宮御本地堂(豊中市有形文化財)

お位牌堂、東照閣仏舎利殿(とうしょうかくぶっしゃりでん)は、元川崎東照宮の本地堂(寺院の本堂にあたる)となります。元和3年、二代将軍徳川秀忠公の上意を請けた大坂城主松平忠明公により創建されました。

東照閣仏舎利殿内部 平成2年(1990)9月造立

仏法守護鳥である2羽の白孔雀が「釈尊の右鎖骨」と伝えられる仏舎利を守護するという様式で、他に類を見ないユニークなものです。台座には南伝仏教の一大絵巻ペラヘラ祭が彫刻されています。

 
 

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