大阪摂津 東光院萩の寺① 生命力の強さと和合を願う行基の思い萩の花 新西国12番

 

行基が天平7年(735年)豊崎村(現在の大阪市北区中津)に堂を建て薬師如来を祀ったことにはじまるといわれている。

行基は豊崎村で民衆に火葬の方法をはじめて教えたとされており、当時、淀川水系に群生していた萩の花を供花として霊前に捧げたという。当寺が萩の寺といわれ、境内に萩が植えられている起源はここにあるとされている。

 

曹洞宗の籍に入ったのは延宝9年(1681年)霊全和尚が入山してからといわれている。当寺が現在の地に移ったのは大正3年(1914年)とされており、歴史的には新しい。

 

太平洋戦争中、食糧確保のため萩が植えられている土地をイモ畑にせよ、との圧力がかかったが、これに負けずに萩の花を守ったという。

 

入口で参詣拝志納金@200を 萩の供養筒に入れる

 

門をくぐって正面に、道了大権現堂、納経所、大書院、本堂が見える。

新西国第十二番霊場として知られ、通称萩の寺と呼ばれ、毎年秋には3000株の萩の花が咲く萩の寺。

 

生命力の強さと和合を願う行基の思いが込められているとされる萩に覆われた境内は、「大阪みどりの百選」のひとつ。毎年9月15~25日頃に「萩まつり道了祭」が行われる。

 

かつてここを訪れた行基は、投げ捨てられる屍を哀れに思い、民衆火葬を日本で初めて行った。その折、薬師如来を彫り、死者の霊を慰めるため行基自ら萩を植栽したものと伝えられている。

 

 

次週は 大阪摂津 東光院萩の寺② 萩の庭に集う人々 北大路魯山人