大阪摂津 川西満願寺④ 美女丸伝説 多田源氏ゆかりの地 新西国13番

 

 

美女丸伝説

平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍 源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。
今からおよそ一千年前、源満仲の多田源氏と呼ばれる武士たちが摂津の国の北部を支配していました。その武士たちを率いる源満仲の末子、美女丸(または美丈丸)は素行が悪く、人の忠告を聞こうとしませんでした。見かねた父、源満仲は美女丸を寺へ預け、僧になるための修業をさせることにしました。

毘沙門天堂

源満仲公が自ら造って奉納したといわれている毘沙門天像をお祀りしています。勝運、福徳除災を祈る七福神の一人。「毘沙門天王」の額は、明治から昭和初期の日本の書道界の第一人者「川村驥山」書

 

不動堂

時が流れ、父満仲は十五才になった美女丸を呼び寄せ、修業について尋ねました。しかし、気の向くままの生活をしていた美女丸は、和歌や管弦はもとより経文も読むことができなかったのです。怒った満仲は、家臣の藤原仲光に美女丸の首をはねるように申しつけました。

 

いた仲光でしたが、主君の子の首をはねることがどうしてもできません。困り果てた仲光は、「私を身代わりに」と命を差し出す我が子の幸寿丸の首を断腸の思いでかきとり、満仲に差し出しました。
そして家臣の藤原仲光は美女丸をひそかに逃がしたのです。

 

稲荷社

後に仲光の息子、幸寿丸が自分の身代わりになってこの世を去ったことを知った美女丸は、悔い改めて比叡山に向かいます。比叡山に出家した美女丸は、荒行に励み、やがて源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)という高僧になりました。

 

ある時、師の源信僧都(平安時代中期の天台宗の僧)に伴われて当山(神秀山 満願寺)を訪れた源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)は、年老いた源満仲と母公に再会し、自分が美女丸であることを明かしました。驚き喜ぶ母でしたが、その両目はすでに見えなくなっていました。

 

 

それを知った源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)は当山に留まり、阿弥陀如来に誓願をかけ、「母の眼病平癒させ給へ」と丹誠こめて念じました。そして7日満願の暁には、母公の両目が全快するという奇跡が起こりました。

 

ますます信心を深めた母公は、源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)のために円覚院(現在の本坊)を建立します。このときから金堂にお祀りしている阿弥陀如来像は「開眼阿弥陀如来」と呼ばれるようになり、眼の病の回復を願う人々が祈願するようになりました。

 

 

この仏像は、当山を開いた勝道上人の一刀三礼(一度刻んでは三回礼拝すること)の作と伝えられており、謡曲「仲光」 「美女丸伝説」は、室町時代に能に脚色されています。曲の名は、観世・梅若流では「仲光」、ほかでは「満仲」といい、古くは「美女御前」ともいわれました。
仲光が主人公となって物語が繰り広げられる「美女丸伝説」は主従関係の重みと、仲光の心の葛藤を見事に描いた作品であり、中世の世界を切り開いた武士の倫理の厳しさもよく表現され、多くの観客の涙を誘ってきました。

 

 

美女丸・幸寿丸・藤原仲光の供養塔

美女丸(または美丈丸は源満仲の末っ子で、出家して僧名を源賢阿闇梨(げんけんあじゃり)と称し、満願寺 円覚院の住職をしていることがありました。

藤原仲光・・・源満仲の家臣
幸寿丸・・・藤原仲光の息子

 


 

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