「切腹」は何故行われるようになったのでしょうか?
 
人間が自害するための方法に「切腹」という方法がありました。
今ではなくなりましたが、日本の「ハラキリ」に衝撃を受ける外国人も多くいることでしょう。
 
「切腹」の歴史は平安時代中期から始まります。
日本で最初に「切腹」をした人は『藤原保輔(ふじわらのやすすけ)』という人でした。
この『藤原保輔』は貴族でありながら、盗賊の頭目でもありました。
夜な夜な盗みをはたらいていた保輔は、988年に捕まると腹を切って自害を図り、その次の日に獄中で死亡します。
この出来事が日本最古の「切腹」と言われています。
皆さんのもつ「切腹」のイメージは『責任を取って自害する』でしょう。この記録は、とても『責任を取って自害した』とは思えないエピソードですので、これを最古と言わない場合もあるそうです。
 
「切腹」=「責任を取って自害する」というイメージが付いたのは、平安時代末期の『源為朝(みなもとのためとも)』の自害がきっかけです。
 
「鬼ヶ島討伐」が有名で、源義経が八男なのに「九朗」を名乗ったのは為朝に遠慮して名のったという話もあり、また、為朝は伊豆で死なずに琉球に落ち延びて琉球王朝の祖になったという伝説もある人物で、現在でも多くの人から親しまれている人物です。
為朝は、弓の名武将で生まれつきの乱暴者でした。
1156年、保元の乱で崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れますが、武勇を惜しまれて助命され伊豆大島へ流されます。
伊豆大島では国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配します。
1170年、伊豆国の武将工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、為朝は追討を受けます。
一矢報おうと、300人ほどが乗る軍船に向けて弓を射かけ、船を一艘沈め、その後、名誉を重んじて自害「切腹」しました。
当時は「介錯」がありませんでしたので、相当な思いがないとできなかったでしょう。
 
「介錯」が行われるようになったのは、江戸時代中期からです。
そのころには、「切腹」は高い身分にのみ許された死刑の方法として行われるようになります。
作法や手順などが登場し、武士の最後を飾るものとして儀式化され、定着していきます。(刑罰としての坐切腹など。)
 
「切腹」をする理由としては、『武士道』の著者新渡戸稲造は『腹に人間の霊魂や感情が宿ると信じられており、古代の解剖学的信仰に由来するから』と考察しています。
日本語に「腹黒い奴」とか「腹を割って話す」「腹が立つ」「腹に据えかねる」などの「腹」が付く表現がたくさんあるのもそのためなのでしょう。
 
なお、どうしても腹を切れない武士も少なからずいたため、「切腹」の代わりに「一服」という服毒自殺の方法も用意されていたんだそうです。
 
また、生命科学の分野では、アポトーシスを誘導する遺伝子のひとつに、「Harakiri」の名前が採用されています。
 
一言で「切腹」と言っても、時代によりその意味は異なっています。
自殺から始まり、責任を取るための自殺、他殺、処刑と「切腹」の意味は変化しました。
現代においても、何かしら責任を取らなければいけない場合が出てきます。
自由の中にも、責任があります。責任の取り方で、評価も決まる時代です。
 
「切腹」がない今の時代は、責任ある行動を日頃から行うべきなのでしょう。
 
参考資料:
教養で人生は面白くなる!おとなのための知的雑学(編・著:松本健太郎)
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