みんな「科学的」なものが大好き
「量子」「波動」「エネルギー」
──最近のスピリチュアルは、やたらと理科室の匂いがする。
“科学的に説明できるスピリチュアル”というフレーズを聞くたびに、私は苦笑してしまう。
なぜ人は「科学的」と聞くと、こんなにも安心するのだろう。
たぶんそれは、信じたいものを“理屈で守りたい”からだ。
目に見えない世界を語るとき、人はどこかで「信じてます」と言うよりも、
「証明されてます」と言いたくなる。
信仰に自信がないほど科学を飾りたくなる。皮肉な話だ。
スピリチュアル界隈の人たちは、神や霊を語るより先に「量子」を語る。
量子は便利な言葉だ。何でもそこに押し込めば、それっぽくなる。
“波動の法則”も、“引き寄せ”も、“意識のエネルギー”も
──全部まとめて量子力学のせいにできる。
問題は、「量子」という言葉が本来は電子や光の世界の用語だということだ。
物理学者に言わせれば、「思考の波動が現実を変える」と聞いた瞬間にコーヒーを吹くレベルの話である。
科学を装えば安心できる。
しかし科学を理解しないまま使えば信用を失う。
この単純な事実を、そろそろ誰かが言わなければならない。
だから私が言うことにする。
そもそも“波動”って何?
スピリチュアル界隈で「波動」という言葉を聞かない日はない。
「波動が上がった」「波動が重い」「あの人と波動が合う」
──万能調味料のように使われている。
この“波動”という言葉、物理学ではまったく違う意味を持つ。
物理学で言う波動とは、エネルギーが空間を伝わる現象のこと。
音、光、電磁波──どれも振動と周期があり、観測でき、計算できる。
波動とは数値で表せる現象である。
「見えないけど確かにある」などという曖昧な話ではない。
ところがスピリチュアルの世界では、同じ単語がまるで別物として使われる。
そこでは「波動」とは、気分、直感、雰囲気、あるいは魂の状態を指す。
「波動が高い」と言えば“機嫌が良い”“心が整っている”という意味だ。
だから、比喩や象徴として使うなら別に問題はない。
問題なのは、それを物理学的な現象として説明しようとする時だ。
「思考の波動が現実を動かす」
「宝石の波動が細胞に共鳴する」
──そんな話をはじめると、もう完全にカテゴリーを間違えている。
たとえば「大学とは何か?」と聞かれて、「あの建物のことです」と答えるようなものだ。
大学というのは建物ではなく、制度や人の営み全体を指す。
それを“建物”と断言するのは、話の次元を取り違えているわけ。
同じように、心の状態(心理)と電子の振動(物理)を同じ言葉で説明しようとするのは、まったく別の言語で書かれた本を一冊の辞書で訳そうとするようなもの。
どちらの文法も崩れて、結局、意味の通じない混合語ができあがる。
スピリチュアルを科学で飾りたい気持ちはわかる。
“科学的”と書くだけで、それっぽく見える時代だ。
しかし科学の看板を借りた時点で、もう自分の世界の主導権を渡している。
物理学者の土俵で相撲を取る必要はない。
自分の語る世界のルールは自分で守るべきだ。
「量子力学が証明した」は危険な呪文
スピリチュアル界隈で最もよく聞く魔法の言葉――それが「量子力学が証明した」だ。
どうやらこの一言を唱えれば、あらゆる願望も叶うらしい。
残念ながら、量子物理学者の誰一人として「願えば宇宙が動く」などとは言っていない。
量子力学は、電子や光子といった極小の世界を扱う学問だ。
現実の机やスマホや宝石の話ではない。
にもかかわらず、
「量子力学ではすべてが波動でできている」
⇒「だから思考も波動だ」
⇒「思考で現実を変えられる!」
……この三段跳びがいつの間にか“常識”になっている。
さすがに話が飛びすぎている。
もっと言えば、量子論の「観測によって結果が変わる」という部分だけを切り取って、「あなたが見方を変えれば現実も変わる」と説く人も多い。
だが物理学で言う“観測”とは、顕微鏡で覗くことでも、「気づく」ことでもない。
電子を測ろうとすると、その測るための光や装置の働きが電子に触れてしまう。
つまり、「観測した瞬間に、もう元の状態ではなくなっている」というだけの話なのだ。
それを「意識で現実を変えられる」と拡大解釈するのは、さすがに飛躍が過ぎる。
なので人間関係や恋愛運に適用する話ではない。
それでも「量子力学」という言葉を使えば、何か深遠そうに聞こえる。
だからこそ危険なのだ。
難解な学問を装飾として使えば、聞き手は反論できなくなる。
“科学の仮面”をかぶった瞬間、どんなスピリチュアルも急に「賢そう」に見える。
科学とスピリチュアルを無理に混ぜるのは、味噌汁にインクを垂らすようなものだ。
どちらも本来は素晴らしいのに、混ぜた瞬間、どちらの味も台無しになる。
「科学で証明された神秘」などというものは存在しない。
科学が扱うのは再現性、スピリチュアルが扱うのは意味や体験。
立っている土俵がまるで違う。
本来、量子力学は“神秘”を説明する道具ではなく、“現実の限界”を突きつける学問だ。
観測者が世界をねじ曲げるのではなく、「観測できる範囲にしか世界は存在しない」ことを教えてくれる。
つまり、量子論は“謙虚さ”の学問なのだ。
だからこそ、量子を神秘の味付けに使う人々は滑稽だ。
彼らは科学の衣を借りて信仰を語り、信仰の衣を借りて科学を語る。
結果、どちらからも信用されない。
「量子力学が証明した」という呪文は、科学の世界でも、霊性の世界でも通用しない二重の異端語だ。
それでも“波動”という感覚は間違いじゃない
ここまで読んで、「じゃあ波動なんて全部ウソなのか?」と思った人もいるかもしれない。
それは違う。
“波動”という言葉そのものは、たしかに人間の感覚をよく言い当てている。
問題は、それを物理学の言葉で説明しようとしたことだ。
たとえば、人と会って「この人とは気が合う」「なんとなく疲れる」と感じることがある。それは、言葉を交わす前から生じる心理的な共鳴だ。
表情の微妙な動き、声のトーン、姿勢、呼吸のリズム――
脳はそれらを一瞬で読み取り、「快・不快」という直感として反応する。
その共鳴感覚を“波動が合う”と呼ぶのは、むしろ人間らしい表現と言える。
また、脳科学の領域でも、人が安らぎを感じているときにはα波やθ波が現れることが知られている。
これを「波動が整う」と言うのは、比喩としては的確だ。
心が静まり、呼吸が落ち着き、脳内の電気信号が穏やかにそろっていく。
確かに、その状態を“波動が高い”と呼びたくなる気持ちはよくわかる。
つまり、“波動”は科学的な用語ではなく、人間の主観を詩的に表した言葉として捉えるべきなのだ。
本来の意味を奪おうとしたのは、科学でもスピリチュアルでもなく、「わかりやすさ」を求める人間の焦りだろう。
だからこそ、“波動”という感覚そのものを否定する必要はない。
ただし、それは心の現象を語るための言葉として使うべきだ。
物理法則の裏づけなどいらない。
心が静かになり、人と通じ合える瞬間――そのリアリティを大切にすることこそ、
“波動”という言葉の本来の居場所なのだ。
“意識が現実を作る”の本当の意味
「意識が現実を作る」
この言葉は、スピリチュアルの世界で最もよく引用されるフレーズの一つだ。
多くの人はこの言葉を「思えば叶う」と同義に受け取っている。
念ずれば宝くじが当たる、宇宙が味方してくれる
――そんな都合のいい話があるわけがない。
それを信じて人生が好転した人より、財布が空っぽになった人のほうが多いだろう。
しかし、“意識が現実を作る”という考え方そのものが誤りかといえば、そうではない。
問題は、「現実」という言葉の指している範囲を勘違いしていることだ。
心理学の視点で見れば、人の意識は行動に直接影響を与える。
行動が変われば、環境や人間関係、結果も変わる。
つまり、「意識が変われば現実が変わる」というのは、
意識→行動→結果というシンプルなプロセスの比喩であって、
決して「意識が物質世界を変形させる魔法」ではない。
たとえば、自分を「運が悪い」と信じていれば、人はリスクを避ける行動を取る。
チャンスが来ても、「どうせダメだ」と思って手を出さない。
逆に、「やれば何とかなる」と思っている人は行動が早く、失敗しても修正が早い。
結果として“現実”が違って見える。
それは宇宙の奇跡ではなく、認知と行動の積み重ねが生んだ現実の違いだ。
心理学ではこれを「自己成就的予言」と呼ぶ。
自分の信念や期待が、無意識のうちに行動を方向づけ、最終的にその信念通りの結果を作り出す。
要するに、あなたが信じる世界が、あなたの行動を通して形になるということだ。
だから、“意識が現実を作る”という言葉は、神秘でも量子でもなく、きわめて人間的な心理現象を語っている。
思考の波動で世界が変わるわけではない。
思考があなたの世界の「見え方」を変え、行動を変え、結果として現実を変える――そこにこそ本当の意味がある。
スピリチュアルが嫌いな人も、信じすぎる人も、この単純な構造を理解すれば、“意識の力”を誇張せずに使えるようになるだろう。
意識とは呪文ではなく、舵取りだ。
現実を動かすのは、いつだって手と足のほうである。
あなたがジッとしている限り、現実は何も変わらないのだ。
科学と霊性はケンカしなくていい
科学とスピリチュアル――この二つは、しばしば正反対の陣営として描かれる。
一方は「証拠を出せ」と迫り、もう一方は「感じればわかる」と返す。
議論が噛み合わないのは当然だ。
なぜなら、そもそも彼らは違う問いに答えているからだ。
科学は「How(どのように)」を問う学問である。
宇宙がどう膨張しているのか、細胞がどう分裂するのか、
現象の仕組みを説明するのが科学の仕事だ。
一方、霊性や宗教が問うのは「Why(なぜ)」――
なぜ私は生まれ、なぜ苦しみ、なぜ祈るのか。
仕組みではなく、意味を探す営みである。
この二つを混ぜようとするからおかしくなる。
「なぜ生まれたのか」を物理方程式で解こうとしても答えは出ないし、
「宇宙がどう動くか」を神話で説明しても実験はできない。
つまり、科学と霊性は、違う次元の現実を扱う“別言語”なのだ。
それを無理やり一つの文法で話そうとすると、
「カテゴリーエラー」という混乱が起きる。
だが、互いに境界を尊重すれば、むしろ補い合う関係になれる。
科学は私たちの外側の世界を整え、
霊性は内側の世界を整える。
どちらが欠けても、人間という存在は半分になる。
結局、科学と霊性はケンカする必要などない。
科学が「光とは何か」を説明し、
霊性が「その光に何を感じるか」を語る。
その二つの声が重なるところに、
ようやく“人間らしいリアリティ”が生まれるのだ。
量子のせいにしなくても現実は動く
世の中には、「量子の力で夢が叶う」とか「宇宙が応援してくれる」といった話があふれている。
だが正直に言おう――そんな都合のいい宇宙なら、とっくにみんな成功している。
現実を動かすのは、量子でも波動でもない。
自分がどう感じ、どう決め、どう動くか。
つまり、意識のあり方が行動を通して現実を変える。
それだけのことだ。
それでも人は、不安になると何か“大きな力”を探したくなる。
量子や宇宙は、その不安を包む新しい神話の名残かもしれない。
けれど、神話を語るのなら、もう少し正直でいい。
「奇跡」は物理法則の隙間ではなく、人の心のなかで起こる。
現実は、思考実験よりもずっと泥くさい。
だが、その泥の中を歩くのは、他でもない私たち自身だ。
誰かの量子ではなく、あなたの決意が世界を動かす。
だから今日も、静かに意識を整えて……
――さあ、現実を歩いていこう。
(了)
麗月相談室 所長 中村雅彦(ペンネーム:はたの びゃっこ)
新著プロジェクト進行中
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