皆さま

 

お釈迦様は、約2500年前に「人生は苦である」(苦諦)と説きました。

 

ここでの「苦」とは、単なる痛みや不快感にとどまらず、虚しさや思い通りにいかないことへの苛立ちなどを含む、幅広い概念を指します。これは、人生の多くの瞬間が期待や欲望から外れることで、不満足な状態になることを意味しています。
 


日常生活の中で、計画がうまくいかなかったり、過去の嫌な思い出がふと蘇ったりすることが「苦」となり得ます。

 

このように、人生の中で感じる不満や不快感は、特別な状況ではなく、普段から誰もが経験するものです。

 

 

この記事では、お釈迦様の教えと現代の脳科学がどのように結びついているかについて解説されています。お釈迦様が「人生は苦である」と説いたことは、脳科学的にも裏付けられつつあります。

要点をまとめてみましょう。


ネガティビティ・バイアスとは
 

脳科学の観点から、人間はポジティブな情報よりもネガティブな情報に強く反応し、それを記憶に残す傾向があります。これを「ネガティビティ・バイアス」と呼びます。このバイアスは、ポジティブな経験の喜びが一時的であるのに対し、ネガティブな経験が長く心に残ることを説明しています。

例えば、宝くじに当たってもその幸福感は長続きせず、逆にネガティブな出来事の方が後まで影響を与えます。このように、私たちの脳はネガティブな刺激に敏感で、それが幸福感の減少やストレスの持続に繋がっています。
 


快楽の踏み車(ヘドニック・トレッドミル)
 

「快楽の踏み車」という概念は、どれほど強烈な喜びであっても、時間が経つにつれてその効果が薄れていく現象を説明します。心理学者デビッド・マイヤーズによると、人間の幸福感は一時的なものであり、どんなに大きな成功や喜びもやがて消えていく運命にあります。

 

参考文献:Myers DG, Diener E. The Scientific Pursuit of Happiness. Perspectives on Psychological Science. 2018;13(2):218-225.

研究では、新しい環境や恋愛、財産などによる幸福感は数ヶ月から数年で消え去り、人間の感情が「ベースライン」に戻ることが確認されています。この現象は、持続的な幸福を得るのがいかに難しいかを示しています。

 

これは、人間の際限なき欲望につながり、仏教でいう三毒の中の貪欲という煩悩に繋がります。

 

 

脳の進化と現代の環境とのギャップ

私たちの脳は、原始的な環境において危険を察知し、生存するためにネガティブな情報に敏感になるよう進化しました。たとえば、捕食者から身を守るために、危険な兆候を見逃さないことが生存に有利だったのです。
 

しかし、現代の社会では、原始時代のような即座の生死に関わる脅威は減少しました。それにもかかわらず、脳は依然としてネガティブな情報に過剰反応し、フェイクニュースの拡散や不安感の増加、孤独感の強まりなど、心の機能不全を引き起こしています。
 

現代人の抱える心理的問題

現代社会では、SNSの発展にもかかわらず、多くの人が孤独感を抱いています。特に若年層で顕著であり、SNSでのつながりが増えても心が満たされない現象が見られます。

富裕国ほど鬱や不安障害が多く、完璧主義が蔓延していることが指摘されています。これらの心理的問題は、人間の脳が「苦」を標準装備していることに起因しており、現代社会での適応が困難になっているとされています。
 

人間の「苦」からの解放は可能か?

ポジティブ思考や生活習慣の改善など、様々な方法が提案されていますが、それらは一時的な解決策に過ぎません。根本的な「苦」の解放は難しく、人生のデフォルト設定としての「苦」から完全に逃れることはできないかもしれません。
 

結局、お釈迦様が説いた「人生は苦である」という教えは、現代の脳科学によっても支持されており、人間はこの「苦」と向き合いながら生きていくほかないのかもしれません。

 

 

さて、仏教の教えを科学的に解釈することには一定の意義がありますが、批判的な立場から見るといくつかの問題点や限界が指摘されることもあります。

 

以下にそのポイントを示します。



1. 仏教の哲学的・霊的側面の軽視

仏教の教えは、単なる心理学的・生理学的な現象以上のものを含んでいます。たとえば、仏教では「無常」「無我」「空」など、深い哲学的概念が強調されますが、これらの教えは脳科学的な解釈では十分に捉えられません。脳の機能に焦点を当てることで、仏教の教えが持つ霊的な次元や修行の重要性が軽視される危険性があります。

また、仏教における悟り(サムサラからの解脱)は、脳科学的な観点からは単に脳の特定の状態や感情の管理に過ぎないものとして捉えられることがあります。しかし、仏教における悟りは、根本的な存在の理解や輪廻からの解放を意味し、このような深遠な概念は脳科学だけでは完全に説明しきれません。

2. 科学的還元主義の限界

脳科学は人間の経験を脳の活動や化学的反応に還元する傾向がありますが、このアプローチは人間の複雑な感情、宗教的体験、意識の多様性を捉えきれない可能性があります。仏教の教えは、個々の経験や内省に重きを置くため、還元主義的な解釈ではその多様な側面が見過ごされることになります。

仏教では、個人の内面的な経験や悟りが重要視されますが、脳科学的なアプローチはそれを客観的なデータや物理的現象として解釈します。このような解釈では、主観的な内的体験の価値が軽視され、仏教の教えの核心にある個人的な悟りや変容のプロセスが十分に評価されない可能性があります。

3. 文化的・歴史的コンテキストの無視

仏教は非常に多様な伝統や解釈を含んでおり、文化や時代によってその教えや実践は異なります。しかし、脳科学的な解釈はこれらの多様な脈絡(コンテキスト)を無視し、仏教の教えを一元的に理解しようとすることがあります。これにより、仏教の豊かな文化的・歴史的背景が見落とされることになります。

仏教の教えを脳科学的に解釈する試みは、西洋科学の枠組みに仏教を無理やり当てはめる危険性をはらんでいます。これは、仏教の独自性やその哲学的・宗教的価値を損なう可能性があります。

4. 実践と理論の乖離

仏教の教えは、単なる理論ではなく、実際の修行や生活の中での実践を通じて理解されるべきものです。しかし、脳科学的解釈はしばしば理論的な側面に焦点を当て、実践の重要性を見落とすことがあります。このようなアプローチは、仏教の実践における体験的な学びや、悟りに至るための修行の価値を過小評価する結果を招きます。
 

5. 宗教的信仰と科学的懐疑の相違

仏教の教えは、信仰や霊的な追求として捉えられるべきものであり、脳科学的な解釈はそれを「理解する」ものに過ぎません。仏教徒にとって、教えや修行は信仰に基づくものであり、科学的な検証や理解を超えた次元にあります。したがって、脳科学的アプローチが仏教の教えの全体像を理解するためには不十分であると考えられることがあります。
 

これらの批判点は、仏教の教えを脳科学的に解釈することの限界やリスクを示しており、仏教の深遠な教えや伝統的な価値が失われることなく尊重されるべきであることを強調しています。

 

宗教や霊性の実践において「信」は核心的な要素です。信仰は、理論的な知識を超えて、行動や生き方に根ざした深い理解やコミットメントを意味します。これを「知」の枠組みで説明しようとすると、信仰の本質的な部分が軽視されるか、理解されないまま誤解される可能性があります。信仰の世界を単なる生化学的反応や遺伝子の表現に還元してしまうと、その神秘や意味が失われてしまう恐れがあります。

 

 

最後に、上記の記事の締めくくりが疑問符で終わっていることは、何ら解決策を示さないまま、読者を宙に浮かせるような感覚を与えます。そして、それが持つメッセージは、根本的な問題に対する絶望感を呼び起こす可能性があります。

 

苦しみの不可避性とデフォルト設定

仏教の教えの一つは、苦しみが人間の存在において不可避であるというものです。これは、四苦八苦と呼ばれる教義に表されています。現代の科学的視点から見ると、私たちの脳や遺伝子がどのように「設定」されているかによって、苦しみが避けられないものだと解釈されることがあります。

 

この見方は、「苦」が私たちのデフォルト設定であると結論づけ、人間が幸福を追い求めること自体が無駄であるという暗黙のメッセージを伝えるかもしれません。

 

幸福の一時性とベースラインへの回帰

前述したように、どんなに幸福を追い求めても、やがてその幸福感は薄れ、私たちは「デフォルト設定」に戻ると考えられます。これは、心理学において「ヘドニック・トレッドミル」として知られており、どれだけの幸せを手に入れても、時間が経つとその効果が薄れ、再び元の状態に戻るという理論です。

 

この考えは、どんな努力も結局は無駄に終わるのではないかという虚無感を生む可能性があります。

 

人生の重荷と諦観

「重き荷を負いて遠き道をゆく」という言葉は、人生の厳しさとそれに対する覚悟を象徴しています。しかし、この姿勢は、現実を受け入れる強さを持ちながらも、同時にその現実が変えられないという無力感を含んでいます。

 

これを現代の文脈で捉えると、結局、人間は苦しみから逃れられない存在であり、それに対する対策は無意味だという諦めの境地に至る危険性があります。

 

解決策の欠如と読者への問いかけ

記事が疑問符で終わることで、読者は自分自身で答えを探さなければならないというメッセージが暗示されているかもしれません。しかし、その一方で、この問いかけは読者にさらなる不安や絶望感を与えるかもしれません。

 

「粛々と土に還るべきなのか?」という問いは、人間の存在意義や生きる価値についての深い不安を呼び起こす可能性があります。

 

 

 

ただやみくもにポジティブ思考をすることは思考停止&現実逃避にも繋がりますが、かといって人間の脳のデフォルト設定は「苦」なのだから諦めなさいといわれても、救いようがありません。

 

科学的なリアリティを宗教や霊性の分野に持ち込むことは「土俵」がちがうわけで、カテゴリーエラーになります。

 

そういう言葉の置き換えをしながら霊性の実践をする人はいないわけで、人生思い通りに行かないことは多いと感じつつも、どこかに楽を見いだしながら、たゆむことのない内省と自己努力を継続していくことが、本来の仏の道だと私たちは考えています。

 

 

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