皆さま。
海人族と呼ばれる人々は、古くは縄文時代から航海を得意とし、船を巧みに操りながら、広く中国南部、台湾、南西諸島、そして日本列島にも進出していた民だと考えられています。
日本では、古代から沿海部に住んでいた海の民が水上兵力=水軍として活躍しました。
古代ヤマト政権の時代には、日本の水軍を支えたのは安曇部(あずみべ)や海人部(あまべ)、津守氏といった海の氏族たちでした。
古代の日本では、クニの重要な航路は大阪湾や瀬戸内海を経由して外海に出るルートであり、紀ノ川流域を拠点としていた紀氏のように瀬戸内海に対する天然の良港を持ち、木材産地を確保した豪族も独自の水軍をもって活躍したのです。
今回は、海人たちの拠点となっていた島、対馬の人々の祭祀について探りました。
よろしくお付き合いくださいませ。
阿痲氐留神社(あまてるじんじゃ)
所在地:長崎県対馬市美津島町小船越字河岸川352
ご祭神:天日神命(あめのひのみたま)
小船越という地名は、昔船を陸にあげて島の東西を横断する場所だったことから来ています。
小船越は対馬の地峡部にあり、東西300メートルほどのくびれた地形になっています。
明治になって、旧帝国海軍が島の東西の水路を掘削するまでは、そうやって船を一度陸にあげてから引っ張って移動していたのです。
さて、阿痲氐留神社は、ご祭神の名前から見て太陽神を祀るお宮だったように思われますが、私たちが得た感触は意外なものでした。
阿痲氐留神社へ向かう急な階段
阿痲氐留神社の拝殿
サイコメトリーの結果
阿痲氐留神社の祭祀は海神祭祀が起源。
その後、天道信仰との関連で太陽神を祀るようになった。つまり、アマテルとは「天照る」ではなく、元は「海輝る」という意味
この地区の海人(アマ)の長はシャーマンでもあった。彼らは海中に祭壇を築き、そこで海神との交信を行っていた。
海中の聖域と地上をアマたちは素潜りで往来し、海神に供物を施し、海の安定、豊漁を祈った。
こうした古代アマテルの祭祀の状況は、フジツボやカキのへばりついた岩石を海上に引き上げてきて、地上の祭祀場とした。
地上と海中に祭祀場を設置して祭が行われた。
海中から引き上げられた珊瑚や貝、真珠などは、海神の宝物として崇拝の対象にされた。
古語のアマは、海でもあり、天でもあったのですが、祭祀の成立順序としては、海の方が先で、天が後に上書きされています。
対馬の天と海
実際、小船越のこの地はかつて神社のある丘のそばまで海でした。弥生、古墳時代の遺跡は発見されていないといいます。
が、私たちの得た結果に従うならば、遺跡を探す場所を地上に求めるべきではありません。
今では水没している祭祀のあとが見つかるならば、有益が情報が得られるようになります。
海中祭祀場を伴っている可能性が阿痲氐留神社の場合、非常に高いといえます。
そうやって考えて見ると、対馬のあちらこちらに存在する神社、特に見過ごしがちな小祠には、「何、これは?」と思うようなものが「ご神体」として祀られている場合があります。
たとえば、下の写真のように、フジツボやカキのへばりついた岩石を地上に引き上げて、「磐座」としているお宮。
金山宮の「ご神体」
また、珊瑚を引き上げて「宝物」として飾っている祠などがそうです。
住吉神の小祠
対馬の海人は、天と海の両方のアマにまします神々を等しく祀り、神事を司る神職でもありました。
対馬の神社には、プレハブ造りの拝殿があったり、木造平屋建ての質素なお宮も多いのですが、外観にとらわれずに、手を合わせてみると、強い神霊反応が来たり、神籤が下がりやすい場所が非常に多いのが特徴です。
それほどに、地元の人々の信仰心が篤く、人間を超えたものに対する畏敬の念が強い土地柄が、今もなお強い意識場として残っているのです。
自然物を神の依り代として祀ることは、神祇信仰の時代から行われてきたことです。
山をご神体として拝むこと。
海から昇る朝日に向かって手を合わせること。
目の前の岩や巨石に神聖さを感じる心。
たとえ、何の変哲もない事物だったとしても、昔の人たちはその背後に神の気配を感じ取ることができたのです。
絢爛豪華な神殿も建造物も本来は不要です。自分の心の中に鳥居を立て、目の前に拡がる自然の風景を見つめながら祈るだけで、心も洗われ、清浄の境地に至ることができるのです。
私たちは古代から大陸、半島と日本を結ぶ人の移動に際して、重要な拠点だった対馬を徹底的に霊査する旅を行いました。
この地には日本的霊性のコアになるスポットがいくつもありました。神宿る島として特に印象に残った聖地を引き続きご紹介したいと思います。
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