皆さま
神社や寺院は、本来祈りの場であり、神聖な場です。
しかし、最近は社寺を観光資源として人集めが優先されるようになり、外国人観光客も戻ってきてどこもごった返すようになっています。
何のために社寺へ行くのか、その目的を明確にして、聖地を踏み荒らさないように節度のある行動を心がけ、また宗教施設としての静謐性を維持するための取り組みを受け入れる側も進めていく必要があります。
よろしくお付き合いくださいませ。
Q.願いごとがあって参拝にいく場合と観光でいく参拝はどう違うのでしょうか。
A.願掛けとか、お願いごとをしたいときは、ちゃんとごあいさつして、どこに住んでいるこういうものであると自己紹介して、前述した定められた願掛けの作法、それに従って参拝する。結果が出たらお礼参りを欠かさない。これはすでに述べたとおりです。
観光の参拝というのは、単に神とか、仏を拝むために行くのではなくて、見に行く。観光資源として見に行くというものです。建物のすばらしさを見るとか。
Q.有名な神社などでは観光客のルール違反、マナー違反が問題視されているようですが。修学旅行とか、観光旅行とか。
A.神社は聖地ですから、そこは祈りの場所だということを事前に認識するべきです。そこでの振る舞いは非常に気をつける必要があるのです。しかし日本の学校ではそんなことは全然教えないから、みんなわからないのです。
修学旅行の引率の先生にしても神社や寺院での基本的なマナーやルールを知らない人が多いですね。
宗教知識教育とは、宗教の概念や歴史、教えなどに関する客観的な知識を習得し、宗教に対する批判的視野を養うことを目的とした教育です。
宗教の概念をはじめ各宗教の歴史や教えなどに関する「客観的な学び」もおろそかになっています。
教師は、自分自身が信仰を持たなくとも、宗教に関する知識さえあれば教えることが可能です。そういった取り組みも子どもたちの霊性教育につながります。
Q.外国人が御神体にカメラを向けるといったこともあるようですが。
A.写真撮影は当然禁止です。御神体は聖なるものだから。私がインドへ行ったときも、ヒンドゥー教の寺院の中では写真を撮るなと寺院の人からバシッといわれました。私がカメラを持っていたから、それを受付に置いてから参拝しなさいと言うのです。
東京の浅草寺なんかでも平気で参拝している日本人を撮ったりしている外国人がいますが、あんなものも、ちゃんとルールを設けるべきだと思います。
伊勢神宮でも、出雲大社でも若い女性がいっぱい来ているけれども、服装がそぐわない人が多い。私たちの立場で言わせていただくと参拝に行くという意識で行ってほしいのです。観光であってもいいのですが、少なくとも着るもの、身だしなみには気をつけましょうと。
Q.渋谷あたりを歩くのと同じ感覚なんですね。
A.だいたいが神社は「ホーリーな場所」だという感覚を現代人は失っているのです。俗な場所と一緒にしているのです。
そもそもその感覚が失われていることがスピリチュアルニーズの問題につながってきていると私は思うのです。
今、「生き方がわからない」「生きる目的がわからない」と訴える人が増えています。生きる目的を見失って自暴自棄になる若者も多くいます。それは裏を返せば、「生きている実感」を得たいという欲求が潜んでいるわけです。
本来、神社仏閣は、そういった「生きる実感」を満たす聖なる場所・コミュニティとして存在してきたわけです。今こそ、「聖なる場」の復活が求められている時代だと思っています。実際、そうした運動は「新霊性運動」として脚光を浴びてきているし、私自身もそのプロジェクトに取り組んでいます。
Q.観光の参拝ですが、伊勢神宮とか、出雲大社などの立派なところに行ったら、ご利益のほうもお願いしたくなりますね。
A.お願いするのはいいけれども、その代わりに私は何をしますというちゃんとした願掛けのルールにのっとってやってほしいのです。
「クレクレ参拝」と私はいっていますが、「なにをしてほしい」ということの一点張りでは絶対ご利益は何ももらえない。その場合、自分は何を差し出すかということをはっきりさせておかないと。
成就した暁には、また来て何%を寄付させていただきますとかでもいいし。
でも、そもそも観光でそこまでする必要があるかということです。
前にも述べていますが、初詣の神社ではみんなが「あれがほしい」「これをくれ」ということばかり願っている。「くれくれ参拝」です。大勢の人がみんないっせいに自我を出すからダークな想念がいっぱい渦巻くような神社になってしまう。
そうした場でもらってくるのは、人の思いだけで、いいことは何もないです。
Q.今、聖地ブームということで、聖地やパワースポットを紹介したサイトや本などもよく見かけますが。
A.結局、そういう情報源があるものだから、いろんな人があっちこっち行って、踏み荒らすということが起こっているのです。こんなところに入っちゃいけないという禁足地まで、勝手にずかずか入っていく人が後を立たないのです。
沖縄に行ったときのことですが、沖縄には御嶽(うたき)という聖地があって、あそこまで入り込んでいる人がいたのです。
なにかいいことがあると勘違いして入っているのでしょうが、現地の人から見たら、とんでもない話ですね。
昔からあるものをそのままの状態で今に伝えているものなのに、そこにずかずか土足で上がり込むわ、勝手に写真撮影はするわで大変でした。
挙句の果て、「この場所の波動を調整してあげましょう」などといって変な儀式をやって帰る人がいたりとか、清掃活動とかいって、NPOなのですが、御嶽の聖地まで、木を伐採したりする人までいました。清掃ということを大義名分に、ご神木とか、聖なる林というものをぼんぼん勝手に伐採してしまった。
これは現地の新聞で取り上げられて、問題化されましたけれど。
Q.本人たちは清掃だと心から思っているのですか。
A.それはわかりません。やった人間からしたら、そこをきれいにしましょうということでしょう。でも、それはこの土地の本来のしきたりを守るべきであって、聖なるものを切り落としたりなどということはとんでもないことです。
そんなことをやっている人間が今いるということです。それくらい信念がもう崩壊しているのです。聖なるものに向き合う信念というのが。危機的ですよ。
Q.あるところで、神社にお参りしたら本殿だけでなく摂社も全部お参りしたほうが、よりパワーがつくと教えているところがあるのですが、それについてはどうですか。
A.それはありません。だって、いろんな神様をお参りしてしまうと、その中に自分が関係があるとか、相性のいい神様もいれば、そうでない神様もいる場合がありますから。関係ないものを拝んでも意味がありませんから。拝んではいけないということではないけれど、効果がないということです。
明治時代に神社の統廃合や合祀を推進して、摂社・末社をこしらえる動きもありましたが、それによって地域の氏神様とか昔からの風習が衰退してしまった歴史もあります。
Q.俗な言い方になりますが、波動のよくない神主さんがいる神社だと、神社そのものがパワーダウンするということはありませんか。
A.そこの神社の神主の波動の影響というのは確かにあります。どんな神主がいるか、それでその神社の格というか、雰囲気まで変わりますからね。
神様自体は変わらないけれども、祀っている神主の品性が卑しいという場合は、神が悪魔になってしまうということがあります。前述のように、祈りには光と闇の面があって、その人の思いひとつでどちらにでも転ぶのですから。
実際私もそういうケースを知っています。
ある地方の八幡系の神社の神主なのですが、この人が呪詛をするのです。そこの神社を氏神さまにしている人がいて、もともと自分の家で祀っていたお稲荷さまを、その神社に寄贈するという形にして、お稲荷さまの祠を建てたのです。
ところがあとから、やはりそれはその人の家の守り神だから、家で祀るべきだということをいわれたわけです。それで「自分の家の守り神として戻したい、戻させてくれ」と神主に掛け合ったのですが、ダメだといって却下されたのだそうです。
この人も悩んであちらこちらに相談に行って、いろんなところで拝んでもらったりしたのですが、一向に結果が出ない。それが神主の知るところとなって、トラブルとなったんですね。それで神主が呪術をかけてきたのです。神主が呪術をするなど、とんでもないことです。
それで私たちのところに相談にこられたので、その呪術は防衛しました。お稲荷さまは結局帰してもらえなかったのですが、気持ちの上だけでも返してもらったことにして、伏見稲荷大社から新たに分霊を勧請して祀りなおすということにしました。
このような心がけがなっていない人が祀っているような神社というのは、やっぱり悪魔化しやすいといえます。神社の敷地内にも邪気、邪霊というか、そういったものがたまりやすくなりますね。
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