令和5年11月30日

 

壬辰 五黄 執 奎

 

 

  霊的世界とは?


霊界とはどこにあるのでしょうか?神仏は本当に存在するのでしょうか?神界・仏界はどこにあるのでしょうか?このようなことは誰でも一度は考えた事があるのではないでしょうか。私もこの世界に関わった時初めて思ったことが、この問題です。

何度かの集中的な修行の積み重ねの中で初めて神憑りになり、神籤(みくじ)というものを経験したときに入ってきたメッセージはこうでした。つまり、霊界、神仏は自分の心(魂)の内側にあるということ。ある意味では神仏は自分でもあり、鬼や悪魔は自分の姿でもあり,自分が作り出した世界でもあるのだと……。


私の場合、このような問題について本を読んだり、人の話を聞いて研究したわけではなく、自分の身を以て少しずつ分かってきたように思います。私自身、神仏の声、あるいは他人には見えたり聞こえたりしない何らかの存在が本当にあるのかどうかを確かめたいと思い、神社や寺院で修行も積みました。

神仏の世界はどこにあるのか、霊界はどこにあるのか、とても単純なことかもしれませんが、常々疑問に思っていました。それがただの幻覚幻聴なのかと自分自身を疑う日々が続いていました。

最後に自分自身が分かったことは、神仏は自分の心の内にあり,霊界とこの世(現世;前世)は1つである、ということです。宇宙全体が何もかも意味を持つものだと、今思うことができます。それが正しいものとして学問的に証明できるかどうかは別として、宇宙の中で起こっている出来事の1つ1つが何らかの意味を持っているのではないかと、あくまでも体験を通じて感じるようになりました。

「宇宙が自分のなかに存在する」という意味が最近になってようやく分かるようになりました。私の場合は生死に関わるような経験が何度も重なって、自分の死を覚悟したときに強く実感できたのです。

神仏は自分であり,また神仏は自分の内にある


心(魂)とは一つの鏡でもある
 

心(魂)の鏡は曇ることもあるが輝くこともある

それが真理であると……。

以前からつき合いがあったAさんと言う女性の体験です。その方とはまったく霊的、宗教的な面での関わりはありませんでした。単なる個人的なつき合いの友達でした。

ある日、彼女が急に私と一緒にお参りに神社、仏閣までついてくると言いだし、お参りに回ることになりました。その中の1カ所がかなり霊的にはきつい場所があったにもかかわらず、自分の身に何かがあっても構わないと言い、半年近く一緒に修行のおつきあいさせていただきました。すると、だんだんと彼女の意識に変化が現れ始め、霊感が身についてきたのです。霊体が見えたり、場所の雰囲気に身体が敏感に反応したり、直感も鋭くなりました。体も以前より健康で、表情も明るくなりました。そして、私はその変化に対し、彼女に気持ちを訊いてみました。

まず、神仏に対しての疑いの気持ちをなくし、他人が何を言おうが神仏が存在するのならば、必ず救いの力があるはずと考え、取り憑かれるとか怪我、病気をするとすれば、それは自分自身の意識の持ち方に原因があるにちがいない、とはっきり答えてくれました。


ただ、1つだけ彼女は願い事をしていて、それは毎日元気で過ごすことのできるように神仏に感謝と祈りを欠かさず行っていたそうです。今は神仏にいただいたこの霊感を大切にしているそうです。

また、彼女はいわくつきの波動がよくないとされている場所にも進んで祈りを捧げるために入っていこうとしました。私がここは過去の因縁がある場所だと前もって話をしたにもかかわらず、彼女はいくら他人がよくないと言っても、自分はきれいな気持ちで参拝したいだけなのに、悪いことが起きるとは考えられない、もしも神仏と一体になっているのなら、かならず守ってもらえるはずだと言って、私を驚かせました。
 

彼女の経験を今思えば、自分が波動が悪いとかよいとか判断するのではなく、神仏がその人を受け入れて下さるかどうかは、すべて自分の神仏に向き合うときの意識状態によって生み出されてくるのではないかと考えさせられました。

まったくの素人の方が霊感体質になったという事実を見て、神仏意識の意味をしみじみ教えられたような気がします。人間、誰にでも霊感や直感はあるものだと思います。自分を大切にすること、良いも悪いも自分なのだから、決して自分を嫌いにならない、もっと自分を愛することが神仏と一体化する1つの道ではないかと感じました。

ところで、私の関わってきた相談者のだいたい9割が何らかのストレスあるいは悩みからくる、いわゆる「見える。聞こえる。感じる。」の三拍子そろった人だということ、それと他にも宗教的なところなどに必ず相談に行っており、そこで次のようなことを言われています。

1.生霊に取り憑かれている
2.動物霊に取り憑かれている
3.水子、先祖霊の祟り、障りであると言われた
4.神仏から修行をしなさい、出家しなさいとのお告げを受けている


このようなことを言われて不安になっているために、いくら違うと言ってもなかなか納得してくれないので、私としては困惑しています。

私自身の意見ですが、それが真性の霊的危機なのかどうかさえも区別せずに、いろいろなことを吹き込む人がいるという事実を知ってもらいたいのです。嘘から出た真と言いますが、恐いのは、そうして何かが憑いている憑いていると言われ続けると、だんだん弱気になって暗示にかかり、最初は何も憑いていないのにやがて本当にいろいろ霊的なものを呼び込んでしまいます。

そういう場合、私の仕事の方針としては、はっきり「あなたは普通の人ですよ。」と、「霊的なものなどは全く受けない身体ですよ。」と伝えることです。何でも相手の物語を受け入れて相談者の話に合わせることは、本人の助けにはならないと私は考えています。

ときには精神科、心療内科を受診されてみてはいかがですかと勧めた方もおられます。呪術に関わる仲間の話では、思いこみ、うつ、神経症の方がほとんどです。結論として、本当の霊的障り方はとても少ないと言えます。

霊的なサポートという場合、癒しやセラピーの要素や技法も取り入れる必要があるとは思います。でも、自分は霊感体質だとか、霊媒体質だとか言うことが一種のステータスなってしまうのは理解できません。なぜなら、普通の人が感じることのないものが、見える聞こえるというのは、とても辛く苦しい状態だからです。それに、ある意味ではとても恐いことだということを知ってほしいのです。自分の感覚が乱れ、意志の力でコントロールできなくなってしまう人もいますし、狂気の世界に入ってしまった人も大勢います。本当に霊的な感覚が目覚め始めると、いずれにせよ、まともな神経ではいられなくなるのですが、それでもこの世界で一生懸命頑張ってみようという覚悟が必要だと思います。

罪の意識に苛まれたり、自分は悪いこと、汚いことをしていると自分を責める方もいらっしゃいますが、逆に言えば「そういった経験をしたからこそ、これからは反省とかきれいにとか、正しくとかの分別ができるのではないですか?」と励ますようにしています。光(清浄なるもの)と闇(人間のイヤなもの)の両方を知ることが大切なのではないかと私は思います。どちらの経験が欠けても、本当の幸せと不幸せを感じることが難しいのではないでしょうか?不幸のどん底を知っているからこそ、幸せであることの有難味がわかるのではないでしょうか?

この世の中には偶然というものはないと私は思います。だからこそ、今の瞬間瞬間を大切にして生きていゆこうと思います。
 

 

麗月 謹上再拝

 

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