いわゆるスピリチュアル系にしばしば認められる信念に「霊的防衛」(Spiritual defense)があります。

 

霊的防衛とは、人々が自分のもつ「あるがまま」の自己表現を妨げる霊的な信念をさしています。

 

たとえば、ヒンドゥ教、仏教、ないしキリスト教の信仰実践者は、人間関係において怒りを表現したり、自己主張しないことがあります。それは自分がそのような行為をとるのが宗教の教えに反すると信じているためです。

 

ところが、これは反面、その人が生活の中で腹の底ではもっている不快感を否定し、自虐的な姿勢を維持させることにもつながる可能性があります。霊的防衛によって、自分の本音を否認し、抑圧する根拠を得ているわけです。これはその人の苦悩を肯定的な方向に変容させるのではなく、むしろ長引かせることにはならないのでしょうか。

 

「プラス思考」、「ポジティブ・シンキング」という言葉もよく目にします。しかし、このプラス思考というイメージ操作法も、下手をすれば霊的防衛と同じ結果を生み出して、自分が直面している問題の解決にならない場合があります。

 

自分が苦境や悩みの真っ只中にあって、にっちもさっちもいかない。上司からガミガミ叱られたり、次々と山のような仕事を押しつけられて、いたたまれない気持ちになって、へこんだりする。

 

そういうときでも、「いや、これは自分に課せられた試練なのだ。私は絶対に成功する。この壁を乗り越えた先には、輝かしい未来が開けてくるのだ」とお題目のように心の中で言い聞かせたりする。

 

それにも関わらず、一向に光は見えてこず、失敗を繰り返してさらに奈落の底に墜ちていくこともあります。

 

要は、闇雲にプラス思考をしたところで、失敗の原因を合理的に分析し、適切な対策を講じなければ何も事態は変化してこないのです。

 

現実否認のためのプラス思考は百害あって一理なしです。

 

また、自分の腹の底に澱んで溜まっている悪感情に気づき、これを受け入れ、発散させてやらなければ、最後には心身を病んでしまうこともあります。自分の心の中にある「悪」、「闇」を封殺するのではなく、これに気づいて現実的な方法で解消してやることも必要なのです。

 

霊的防衛のパターンには他にも次のようなものがあります。

 

1.愛情深い親切心と霊的な謙虚さの実践であると合理化されている他者や権威への絶対的服従

⇒ これは権威者の顔色ばかり気にして、リーダーに気に入られようと取り入ったり、組織の大義名分を盲目的に受け入れて、操り人形のように振る舞うカルトのメンバーを想像してみればよくわかります。それがときとして、殺人までも相手のためになる「慈悲」だとして肯定し、集団暴走につながることもあります。

 

2.「神は、すべての恵みと私が必要とするすべての真の源泉である」という言葉で合理化されている、実際は他人に自分の世話を頼んだり、世話をしてもらうことができない状態

⇒ 困ったときに人からの助けやサポートを要請できないのは、人間関係スキルの欠如と見なすこともできます。霊的な成長はともかく、他者と上手に関わること、そして対人的に成長することも心の発達の1つの要件です。

 

3.禁欲的実践として合理化されている、対人的、性的な欲求を扱えないこと

 ⇒これは欲求不満を高め、逆に攻撃性を増大させる可能性があります。人間も動物の一種であり、自然の摂理に従って生きています。生存に関する生理的な欲求や人間関係に関わる社会的な欲求を自然な形で満たして楽しんだり、喜んだりすることも重要です。

 

4.「霊性がすべてを扱う-人生は霊的レッスンである」と合理化して、生物学的、心理的、対人的な次元の問題に直面せず、それに対処できないこと

⇒ 通常の現実と直面し、日常性の中で人として自然に生きていくことがまず優先されるべきです。人は霞を食べては生きられません。人は愛情や友情など、他者と関わることで悦びや楽しみを見いだすことができます。そして人は自分の存在価値を認められ、誇りとプライドをもつことで生き生きしてきます。

 

人は霊的な生活のみを優先するあまり、魂の全体的な発達を見失うことは真の霊性開発とは逆行するのではないでしょうか。

 

よく考えてみて下さい。

 

霊的覚醒は優れた能力をもつ傑出した少数の人々だけが到達できるというのではなく、本来は誰にでもその可能性は開かれており、理論的には可能なことです。

 

しかし、現実にはそれを求め、かつ達成している人間は非常に少ないことも知っておいた方が良いでしょう。

 

どうしてでしょうか。

 

私たちがこの世に生を受けて成長を遂げようとするとき、成長を阻止したり、自分からそれを回避したり、挫折を味あわされるような出来事が次々と起こるためです。

 

たとえば、霊性開発のプログラムにおいては同時に自我喪失の危険が伴います。内向的、弱気で、自信がなく、人とかかわることを嫌い、自分の殻の中に閉じこもりがちな人ほど、逆に自分を失ってしまいます。

 

このような人ががむしゃらに霊性を掘り起こそうとすると、幻覚や妄想に支配されてしまい、現実と空想との区別がつかなくなり、ときとして精神を病んでしまう危険を伴います。

 

霊性開発のワークショップを主催している人は、このことを十分認識しているのでしょうか。

 

瞑想による自己浄化の試みにしても同様です。

 

自分自身を客観視できて、自らの目指そうとしている理想的な状態と現時点での行動的基準からのズレを修正しようとする企ては、自己嫌悪感との戦いの連続です。

 

瞑想的習慣づけは一時的に浄化作用をもたらし、ときとして深く平安な感覚を獲得するのに役立ちますが、その感覚を日常生活の場面において維持することは困難を伴います。

 

瞑想をしている内に「迷走」が始まることもあるのです。

 

秦霊性心理研究所

 

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