呪術というと、今ではマンガやアニメの世界でそれっぽく描かれることもあって、メディアが描いているものがイメージを作り、固定観念になっている部分もあるように思います。

 

 

でも、これはあくまでも空想や虚構の世界の話であって、実際にはそんな馬鹿げた世界など存在しないのだと思っている人も多いかもしれません。

 

これからお話しする内容は、フェイクでもフィクションでもありません。

 

 

なぜなら、筆者は呪術師ですし、呪術師や祈祷師、あるいは霊能者と呼ばれる人々の世界をリアルタイムで見ることのできるポジションにいるからです。

 

 

以下に書き記す内容は、日本の呪術師の世界の一端をご紹介するものです。これをどう受け止めるかは皆さん次第です。

 

 

日本の民間祈祷師(シャーマン)の全貌まで把握しているわけではありませんが、どちらかというと西日本の特定の地域に呪術師は今でも大勢います。

 

 

彼らは霊能を持った呪術師もいて、占い、まじない、加持祈祷などの儀礼的行為を行って相談者のさまざまな悩み事や現世利益的な願い事の支援を行う人々です。神道系、仏教系、修験道系、陰陽道系など宗教的背景はさまざまですが、昔ながらの呪術的、密教的伝統に根ざした儀礼を行い、降神、憑依などのトランス状態になって託宣をしたり、神霊や仏との交信を通じて相談者の環境の変容を試みたり、心身の「癒し」を試みるわけです。

人類学や民俗学の分野ではこうしたシャーマニズムをテーマに書かれた文献をたくさん見つけることができます。「癒し」の社会・文化的な規定性を検討する上で、こうした文献は有益な知識をわれわれに提供してくれます。しかし、人類学者や民俗学者はあくまでもシャーマニズムの社会的な役割に焦点を当てて研究しているわけであり、シャーマンたちが霊術を駆使して本当に「癒し」を行っているのか、その真偽の程にまでは言及することは少ないといえます。

もちろん、彼らはフィールド・ワークの手法を採用し、シャーマンとそのコミュニティに一定期間とどまって生活をともにしながら「生の資料」を集めるわけですが、そうした参与的観察の中で手にしたデータをすべて公表しているわけではないでしょうし、これを論文や本にまとめる過程でふるい落としてしまうデータもあります。

 

 

それに加えて、研究の対象となっているシャーマンたちがどこまで実態をあるがままに見せてくれるか、語ってくれるかという問題もあるでしょう。シャーマンたちから見れば、学者はあくまでも部外者であり、建前的なことを語っておくのが無難な相手であるわけです。それに学者の頭では理解できない世界も繰り広げられていますし……。

幸いなことに、私たちは呪術師たちと接触する機会に恵まれ、彼らの生きざま、仕事ぶりについて詳細を知ることができるようになりました。筆者自身、密教や土着の宗教的習俗に関心を持っていましたので、同時にこうした儀礼について彼らに指導を請い、精神修養法として実践的知識を得ることもできました。そういうプロセスの中で、「呪術師業界の実態」について次第に認識が深まっていったわけです。

 

 

今では筆者も「呪術師」の一員です。


この記事では、これまでに筆者が見聞した呪術師の裏話を差し支えのない範囲で語ってみようと思います。なお、個人名や団体名は一切公表することができませんし、連絡先に関する問い合わせにも応じることはできないことを、最初にお断りしておきます。


 

さて、呪術師の間で日常茶飯的に「心霊戦」が繰り広げられているのは、この業界では公然の秘密のようなものです。簡単にいえば「念」のくれ合い、飛ばし合いです。動機は色々ですが、1.団体間の勢力抗争、2.個人的な恨み・嫉妬、3.顧客からの依頼などが主です。何せ物的証拠が残らないやり方を使うので、市井の人にとっては理解を超えてしまう世界でもあります。


呪術師の看板をあげている人には少なからず体を壊す、病床に伏せり、生死の境をさまようような経験をもっている人がいます。1つには相談者たちの持ち込む邪気、邪念に長年被曝し続けることで肉体が変調を来しやすくなる。それ以上にえげつないのが同業者に呪詛をかけられて命を狙われる、という類の戦いです。


超心理学では生体PKという概念があります。これは生物の細胞を活性化したり、生体機能を回復させたりする「建設的な念力」という研究がもっぱらなのですが、現実的には呪殺という破壊的な生体PKの使い方の方が多いように思えてなりません。その昔、ロシアでニーナ・クラギーナという超能力者がカエルの心臓を念力で止める実験を行ったことはありますが……。

ターゲットにした相手をサイキックな方法で攻撃するには、いろいろな手段がありますが、常套手段としては現象として病気の症状を起こさせ、体力を消耗させて、あわよくば死に至らしめる、というのがあります。

もちろん、念を飛ばす方と受ける側に歴然たる「力の差」がある場合には、一気に衰弱させ死に至らしめることになります。しかし、もし相手がこの攻撃に持ちこたえたならば、送った念が倍返しで戻ってきて、逆に加害者の生命が危うくなるというのもこの種の現象の特徴です。「やるかやられるか」の世界なのです。

出る杭は打たれるのが日本の社会の特質、いじめの構造なのですが、将来自分よりも「ランク」が上がり、自分の仕事上の脅威になると思うや否や、この業界の人間は相手を潰しにかかります。それで命を落としたり、再起不能になったり、というのが呪術師の世界ではないでしょうか。

いわゆる超能力や霊能力を操作できるようになるということは、必ずしも意識進化とは別次元の問題かもしれません。逆に意識の進化した人間はこういう力を利他的な方向に利用することができるのかもしれません。

彼らの「暗闘」を知るにつれて、世間以上にドロドロしたものを感じざるを得ません。シャーマンとは癒すだけじゃなくて、滅ぼす者でもあるという認識を筆者はもっています。

現代においても、奈良・平安時代と同じく呪術(日本古来のもの、その他仏教系、西洋系など)の伝統は脈々と息づいています。専属祈祷師を養成している団体も存在します。その団体では「殺られるまえに殺れ」という教えを説いています。ついでに言うと「裏切り者は消せ」というのもこの業界の常識です。

東京や大阪で仕事ができなくなった呪術師が地方で荒稼ぎをしたり、逆に地方で看板を出したりすると「潰される」ために東京や大阪まで出稼ぎに行っている業界人もいます。いずれにしても、「闇の世界」の出来事ですから、表沙汰になることはまずありません。こうしたサバイバル・ゲームに勝ち残った者がこの世界の有力者になっていくわけです。
 

 

お手軽に霊感を身につけたい、霊能者とか呪術師ってかっこよさそうと思って、その道に入り込んでしまう人もいるように聞いています。でも、くれぐれも申し上げておきますが、呪術使いになるなんて決してかっこいいことでもないし、霊感があることで得をするようなことはほとんどないと思います。現世利益という点では、得るものよりも失うものが多いのです。実際に知り合いの同業者に聞いてみても異口同音にそう言います。ある意味で、彼らにとっては平凡な人生を歩む方がよっぽど幸せだというのです。何も見えず、何も聞こえない状態でいる方が、他人の腹の底、本心がわからなくてむしろ気楽でいられる。筆者の知っている限りで言えば、自分からそうなりたくて呪術師(霊能者、祈祷師含む)になった人は皆無です。


それでは、ようやくですけど本題に入りましょう。

 

 

呪術師たちは、常に自分自身の信仰を維持し、かつサイキックな力を安定的に発揮するために修行を積んでいます。断食、滝行、水行などの荒行を繰り返す人もいますし、山に篭って瞑想したり、日本各地の霊場をめぐって祈りをささげたりもします。多くの人は自分が気に入っており、かつ一定期間自由に使える篭り場を借りたり、所有していて、自らの精神修養のための時間と労力を割いてたゆまぬ努力を続けているのです。もちろん、そのためにはお金が必要になります.何らかの宗教法人に所属している呪術師の場合、組織が生活の保障をしてくれますが、個人で活動しているフリーの呪術師の場合は、その資金を自分で調達することになります。資産を持っていたり、有力な信者を抱えている人は生活に困ることなく、修行にも専念できますが、そうでなければ借金をしてでも、生活を切り詰めて修行のための資金を捻出しなければなりません.決して楽な生活ができるなんてことはありませんし、修行中は不思議なほどお金が入ってこなくなります。他人にはそういうそぶりを見せることはありませんが、お金の苦労、経済的困窮も修行のメニューの1つだといえるでしょう。

そうまでして、なぜ彼らは修行に打ち込むのでしょうか?

 

 

それは1つには神霊との交信を行い、自らの意識レベルを向上させ、そうして得た霊的智慧を愛他的な方向、つまり人助けのために使うことが自分の使命だと自覚しているためです。でも、そういう自覚に至るまでにはいろいろな紆余曲折があってなかなか達観するのは容易ではありません。

霊的智慧には光の要素と闇の要素の両面が含まれています。真の覚者は光で闇を消し去ることができるようになるのでしょうが、多くは闇に飲まれて淘汰されるか、その道を歩むことを断念せざるを得ない状況に追い込まれていくようです。これが筆者の言う「魔界」です。 闇(負)の力というのは、光(正)にくらべて圧倒的ですし、勢いの激しさが特徴です。その破壊力に圧倒されると命取りになるわけです。実際、(筆者の見聞した限りにおいて)呪術師業界では魔の力を使う人の方が多いです。

よく「魔」が来る、「魔」にやられるという表現を彼らは使います。「魔」は多くの場合象徴的な形で、彼らの前に現れます。日本では昔からキツネ、ヘビ、犬神などの憑き物信仰がありましたが、都市化したコミュニティからはそうした信仰は消えても呪術師の世界では、依然としてこれらの「動物霊」は現役選手です。

筆者のもっている印象では、これは実体として動物の「霊」が見えるというのでなく、人の邪心、邪念といった想念がこれらの動物の姿に象徴化されて超感覚的に感知されるように思われます。邪念の種類や程度によって感知される象徴の風貌や色彩(どす黒い)も異なり、メッセージの入り方(例.乱暴な口調)も違ってきます。清浄なるものは逆にまばゆい光を放ったり、それを見るものに畏敬の念をおこさせる形で出現するといいます。

文化によって憑依霊の象徴が規定されるのが興味深いところでもあります。それを幻覚、幻想と言い切ることもできるでしょうが、魔の力を受けた人の身体的な変調と相手方が呪詛をかけた時刻とが一致するなどの点も考慮するならば、ただの幻想ではないように思われます。心霊(神霊も含む)的な現象というのは象徴的な現れ方をするというのは頷けます。ちなみに西日本では「犬神使い」もいまだに存在します。民俗学の文献に犬神に憑かれると高熱が続き、腹がキリキリいたみ、その後周囲に異臭を放つようになるとの記述がありましたが、筆者もその通りの症状を見たことがあります。もちろん、医学的には別の診断になるでしょう。しかし、こうした「呪詛症候群」に対してはこれを解くためのテクノロジーに長けた人が魔を切るとほとんど瞬間的に症状が消失してしまうわけです.そこが通常の医学的症状と「霊障」との違いでしょう。

また、この業界では相談に来た相手を故意に病気にさせるというのは常套手段です。それでお祓い(浄霊)に来ると、また別の症状を一定の潜伏期間をおいておこさせる。これで信者をつなぎ止めていくわけです。まるで麻薬の売人みたいですけど……。

このように、闇や魔の要素抜きには超越過程を語ることのできない部分もあると筆者は考えるようになりました。光をめざす過程において闇にどう対処するかが求道者には問われます。自分の邪魔をしたり、足を引っ張る輩(他者の想念、邪心、邪念)にどう対処していくかということも含めて。

特にサイキックな世界で仕事をする人の場合、「命の取り合い」になることは珍しくはなく、きれい事だけを言っていては悟りを得る前に、この世から抹殺されかねないほど熾烈な業界だということです。

いずれにしても、霊的修行は想像を絶するような「苦行」の連続です。苦行といっても、断食や水行といった儀礼的なものを指しているのではなく、人生における出来事そのものが苦難の連続だという意味です。一般に宗教的な世界へ入るようになる動機として、いわゆる貧、病、争の三大要素があげられます。霊的修行の道に入る人も否応なく「向こうから」これらをもって来られます。いや、自分が気づいたら、その道に引き込まれてしまっていた、と言った方が適切な表現でしょう。

筆者が知っている限り、大病を病んで大手術を受けた、生死の境をさまようような事故に遭った、自殺を企てた、という経験をもっていない呪術師はいません。また、億単位の借金を背負った、億単位の財産を手放した、という経験も珍しくはなく、さらに一家離散した、複雑な家庭環境に生まれ育った、家族に殺されかかった、実の親に身売りに出された、こちらから原因を作っていないのにいつもトラブルを持ち込まれる、いつも同じパターンの敵が入れ替わり立ち替わり現れる、などという出来事も珍しくはありません。

この世で「不幸」であると考えられるありとあらゆる経験を、生まれた瞬間からしている。そんな人もいます。 最初は嘘だろうとあまり彼らのライフ・イベントには注目していなかったのですが、この業界に首を突っ込むようになってから人生観が変わりました。人によって経験の種類はもちろん異なりますが、共通したパターンというものがあるように思えます。超ウルトラ・ハイパーな貧病争体験をもっているということです。

それで結局、生きるべきか死ぬべきかと思い詰めて、自殺を企てても「救い」が入ってきて助かってしまう。何のために自分は生まれてきたのか、人生に絶望しても、決して死なせてはくれない。そんな経験を積むうちに、突如神がかり状態になる、他人に見えないものが見えたり聞こえたりするようになる。「あれ、自分はとうとう狂ってしまったのだろうか」と思っていると、やがて自分を導いてくれる人と出会う、自分を援助してくれる人が現れる。これまでの職業、家族関係、友人関係も総替え状態となってアレンジメントが働き、霊的な仕事を選択するように持ってこられる、というものです。

さらに霊的な仕事の世界に入ったら入ったで、ここまで述べてきたような熾烈な戦い(洗礼)が始まる。いつになったらこの「生き地獄」から解放される日が来るのか、と思ったりもするのですが、筆者の印象ではこれらの経験はすべて「何かの意志」によって完璧なまでにコーディネートされ、アレンジされているということです。

つまり、必然としてすべての経験が意味を持っている。それは、人々が経験するさまざまな困苦に共感し、これを癒し、導くための心のレディネスを形成するための「大いなる計らい」なのだと思います。考えてみれば、イエスや釈迦が経験した困苦もこうしたパターンに近似しています。筆者が関知している呪術師の場合でも、さまざまな悩みを抱えて相談に来る人にサイキック次元での対処、ソリューションを呈示するために修羅場をくぐり抜けて生きるという経験は「必須科目」なのだと思うようになりました。まさに「尋常な人お断り」の世界です。

最近はわりと気軽に霊的な修行の世界に入る人もいるように聞いていますが、「修行ごっこ」ならいざ知らず、本格的にサイキックな修行の世界に入ろうと思うなら大きなリスクを背負っていることを自覚してほしいと思います。しかも、自己責任です。命を投げ出して責任をとらなければならない事態も起こり得ます。誰も助けてくれませんし、誰かにすがろうと思っても、「大いなる計らい」によって一切の支援を断ち切られてしまうことだってあります。適切な指導者に師事して適切な指導を受けることは、一般の学校教育と通じるところもありますが、その師匠の霊的レベルを超えた圧倒的な意志が介入し始めると、師匠でさえも手助けできなくなってしまう状況に追い込まれることもあります。

スピ系のように「高次の自己」と言うととても聞こえがいいのですが、それと一体化するという業は、あるときは荒ぶる神に我が身を明け渡し、またあるときはその成就を妨げようとする邪鬼、悪鬼との対決であったりもするのです。

 

 

物事には表と裏、建前と本音、光と闇があります。人の想念にも愛と憎しみとがあります。一方だけを見て他方を無視するのではなく、両方を見てみることで全体像が分かるようになるのではないでしょうか。

 

 

この手のテーマについては、いくらでも情報を持っています。読者の皆さんがこの種の話の続きを読んでみたいと思うのならば、いいねをお願いします。続編を書いて思う存分暴露します。

 

 

秦霊性心理研究所

 

 

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