何のための氣功なのか?

常々、自問自答してきました。


氣功をすると、何で身体の不調が解消するのか?

どうして思うように生きられるようになるのか?

どうして運がよくなるのか?

どうしてより良く生きられるようになるのか?


いつも、気の流れがよくなるから、

と、していました。

正解なんですが、本質的な答えにありません。

論理的でもありません。


近頃、合気道を習い始めました。

そこの合気は、間違いなく氣をコントロールして行っていて、テコは一切使わない。関節技もかけない。関節のロック感で投げることもない。

だから、脱力をしないとできない。


脱力とは力を抜くこと。

だけど、実はそうじゃない。

力が入るのは、心の反応。


脱力とは、

五感で感じることに反応をしないこと。

つまり、脱力するということは、

常に自分の中に意識があること。


五感から入る情報に対しての反応は、感情。

感情が中極から良くも悪くも動くことを、

ストレスと言う。


「脱力=反応しない」

ということは、現象をただ見て判断しない、

ということです。それは、外に対しても、

自分の内側も同じ。


つまり、いつもどんな時も自分でいられる。

ということです。


それが完璧でなくとも、

今より少しでもできれば、

人生は自分のものになる。


他人の意識に支配されることはなく、

判断をしないからぶつかり合うこともない。

自分を、他人を、正しく理解できる。

誤解がなければ、いざこざも起きない。


自分の中に意識があれば、

あとはイメージして、丁寧に動きをすれば、

そのままの通りの現象になる。


人生も同じです。

いつも自分でいられるなら、

思うように生きられる。



つまり、氣功とは、

常に自分の中に意識を置く練習です。


自分が心を失わないこと。

常に自分にあること。


そういう自分になるために行うのが、氣功。


だから、

常に自分にあるなら、病気になりにくい。

自ら病の本質に気づけるなら治りやすい。

イメージ、思い、決めたことは現実になる。

つまり、運も良いから出逢いに溢れ、

自分の人生を全うできるようになる。




姪がダンスの発表会だったそうです。
でも、無観客だったということ。

親も入れない。送迎だけ。

何故、感染対策をしているのか。
日本人は本当に形が好きです。
会社に勤めていても、社会を見ていても。

ダンスを習って、発表会をするのは何のためでしょう?子供は親に見て欲しいもの。
または、1番世話になっているひとにその成果を見せたいもの。

そういう場に出られるように、生き生きする場でいきいきできるように、感染対策しています。
親だって、自身が必要とされている場所に存在できるように感染対策しています。

プロは無観客でもまだよいです。
それが仕事で、それをどういう形でもお客様やファンに見せることが仕事なのですから。

一般人は違います。

1番したいことができなくて、
1番いたい場所にいられなくて、
何が感染対策なのだろうか?
と不思議になります。

感染の責任を逃れる為に、
大事な事を見せる責任を忘れています。
何かをしない事にも、同じように責任があることに気づいていない。

今、大切なことは何?
いつも自分自身にそう問う姿勢が大切です。
安全を他人に預ける

車を運転中、交差点での話

僕は右折待ちの2番目。
信号が青になってすぐに、
前の車が対向車が来る前に右折。

右折の横断歩道に歩行者。
車の軌道を見る限り、
車は歩行者を見落としていた。

歩行者は歩行者で、
スマホをいじっていて、
車に気づいていない。

こういう場面に、
日本人の特有さが
みられるような感じがします。

歩行者の信号が青だから安全、
と他人の運転が安全と思い込んでいるから、
スマホをいじっていられる。

気づかず、歩行者のところに
突っ込むやつも、
それに気づかないやつも、
どっちもどっち。

信号が青だからって、
どうして他人を信じられるのか?

流行れば、
それが良いものと思い込み、
善悪はマスコミに煽られば、
それが正しいと信じ込み、
ルールで決まっているから、
安全だと他人を信じる。

それで本当に、
自分の身体で意識で魂で
生きているのでしょうか?

日本人が団結しやすいのは、
他人の意識で生きられる、
という習性のおかげではあります。
でも、他人意識で生き過ぎれば、
自分の本当の価値観は失われる。
それにも気づけない。

目の前に起こる現象より面白いものは、
本当はないのですけどね。