父逝く

20201019

 

16日、父の訃報が届いた。朝早く、あまり苦しむこともなく亡くなったとのこと。

4月に叔父の葬儀で帰省した折、まだ2階の寝室から歩いて降りていたが、その後直腸ガンが見つかり、お盆に帰省した時は、既に自宅で寝たきりの状態だった。それで、覚悟はしていたが思ったより早かった。享年89歳、年齢的にも体力的にもガン除去の手術は難しいので、自宅療養していたが、長生きしたと思う。多くの曾孫の顔を見ることもできたし、不幸な人生ではなかったと信じる。

 

葬式の挨拶を考えてみた。

 

「みなさん、本日は父の葬儀にお集まりいただき、ありがとうございます。

少し、取り留めのない話になりますが、父の生涯を振り返ってみたいと思います。

祖父が30代半ばの若さで、ビルマで戦死しました。たぶん昭和19年のインパール作戦のころと思いますので、父が13歳の頃です。兄弟6人の頭として、出征した祖父に代わり母親を助け、家長として家を守りました。

 

兄弟、妹が巣立ってからは、早く結婚し、私たち3人兄弟や家族を食べさせるために、夏は麦、冬は芋を育てるために段々畑を耕し、農閑期は漁師として働きました。釣り具を整備するのに夜なべしていた姿を覚えています。しかし、それでも生活は楽にならず、豆腐屋も始めました。

 

小学生の頃、部落唯一の雑貨店、木田商店で売りさばいてもらうため、豆腐を配達したことがあります。自転車の後ろに豆腐を入れた箱をしっかり縛っていましたが、配達の途中で自転車のバランスを崩して箱が傾き、中の豆腐が崩れてしまったことがあります。てっきり、大目玉を食らうと思っていたところ、店のご主人は『大丈夫だよ』と声をかけてくれ、引き取ってくれました。部落の人たちのやさしさに触れて育ちました。

 

貧乏生活が続きましたが、希望通り高校入学を許してくれました。

父は、学生時代、成績優秀でスポーツマンだったと聞きました。しかし、上の学校に進める経済的な余裕がなく、兄弟の世話をしながら成長したので、自分の子供は躊躇なく高校進学を許してくれたのだと思います。

 

さいわい、部落は『真珠養殖』で好景気を迎え、私が高校1年の時、父は家を新築しました。

短い期間ですが、バブルを経験したようです。残念ながら、私自身は高校以来、家を出て下宿、寮生活の後、そのまま就職して千葉で家庭を持ったので、自分の生活に追われ、故郷の様子に触れるのは年一回のお盆休みくらいでした。

 

30年前、転勤で新居浜に帰ってきたとき、田舎にも帰省しました。その時、父が入院し、母と二人で先生に呼ばれ、前立腺ガンを告知されました。まだ60歳手前、少なからずショックを受けました。その後、手術で患部を取り除きましたが、少し転移があると聞いていました。

 

その後、たまの帰省時に様子をうかがうと、父はいつの間にかガンを克服し、元気になっていました。治療のため処方された抗ガン剤で体調が悪くなったので、自主的に服用をやめたそうです。それが長生きの要因でした。

 

皆さん、抗ガン剤について知っている方もあるかもしれませんが、あれは猛毒で、強い発がん物質です。厚生省は抗ガン剤が効かない薬であることを知っていますが決して公表しません。癌細胞だけでなく健全な細胞も破壊し、別の個所にガンを誘発します。その薬をやめたことが、長寿につながったのです。

 

父は一昨日、89歳で天寿を全うしました。須下で生まれ、生涯須下で生きました。

生前、父が、自分の波乱万丈の人生を書き物で残したいとポツリと言ったことがあります。現在なら、SNSでブログに自分の人生を書き残すことも簡単にできます。私など、本3冊分ぐらい書き溜めています。父は口数が少ない方だったので、その後どうなったかは知りません。しかし、私たちが父を思い出す時、私たちの記憶の中で父はいつまでも生きています。書き物の必要はありません。

 

皆さん、津島町の須下という部落に『○○直幸』という、ひとりの人物がいたことをいつまでも記憶にとどめて下さい。そうすれば、父はいつまでも皆さんの中でも生き続けます。

 

本日は、どうもありがとうございました。」

 

これは、妄想です。

本物の挨拶は、喪主である弟が、つつがなく無難に行いました。

 

家を出てサラリーマンになった長男の私は、故郷の家を弟に継いでもらい、今や気ままな隠居生活です。このような今があるのは、高校、大学おまけに結婚式まで面倒をみてもらった父のおかげです。もし、他の中学の同級生達と同じように、家の経済状態から中学卒業後大阪に集団就職していたら、または長男として家を継ぎ、半農半漁の生活をしていたら、私の人生は全く違ったものになっていたでしょう。

 

 

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