競争社会らしいから。

他人と比べる人がいるから。

なんでかなと思って。


『できる人』か。
『できない人』か。

『負け組』か。
『勝ち組』か。

いろいろあるけど…
…極端だよね…

白か黒しかないのかな…


そうやって
位置づけしてる気がしてる。

ランクづけ?

『誰かより上か下か。』とか…
↑これがすごく不思議…


理由は
『基準』が
他人になってるから。

他人は
自分ではないのに。

それなのに
自分の『基準』を
『誰か他人』をもとにしている。

つまり
『誰か他人』がいないと
『自分』の『基準』がわからないことになる。


↑そのせいではないかもしれないけど。

ある、自殺した人の話を聞いたことがある。

『1番になる』という目標を持っていた人らしいけど。

目標が達成できた後…

1番になった時、上には『基準』になる人がいないわけだから…
『これ以上、自分は成長できない』だったかな?
って考えにとらわれて…
自殺したらしい…

ある意味、ナルシストっぽい気もするけど…

自分が知っている『周りにいる人』と比べて
1番になっただけかもしれないのに…
もし、井の中の蛙だとしたら…
命捨ててる…


流行があるように。
他人の『基準』は
いつも変わるものだという前提があるから。

自分の中で。

だから
他人を『基準』にするのは
よくわからない。


自分が比べている他人が
自分より上なら
自分はダメな人等の認識になる。

自分が比べている他人が
自分より下なら
自分は(そのひとよりは…)できている。
と、優越感にひたれるかもしれない。

両方とも
比べている他人が
相変わらず
同じ位置に居続けたら。

もしくは
上ならより上へ。
下ならより下へ。いったなら。

自分が
『基準』にしている人が上にいったときは
差をみてしまい
さらに自分をダメだと思って
さらに下にいく人もいる。

『基準』にしている人が下にいったときは
安心して、もっと手を抜いても平気と
つられて下にいったりする人もいる。

あと、みんなと一緒じゃないといけない。

みんなより出過ぎちゃいけない。

制限してる。

能力があっても
わからない。

どんな可能性があっても
誰か他人が『基準』なら
その他人『基準』で制限される。

『基準』が他人のままなら
制限はなくならない。

変わらない。


自分の可能性を潰している。

自分で。

プラスになっている人はいいけど。


あと、上に書いた自殺した人は
目標が持てなくなっている…
目標が持てないと
生きるのに張り合いがなくなるらしい。

人生は長い(かもしれない)から。

目標という
人生で「目」指す道「標」がないと
ただただ命の時間をつぶすために
生きているだけになってしまう。
かもしれない。

だから、自殺にいたったのかもしれない。
虚しさで…

なら、『他人』を『基準』にしている人は
比べる『他人』がいないと目標もつくれないということになるのかな。

『他人』を『基準』にしていることで
自分を制限していることにもなっているわけだし。

なんてもったいないんだろう。


生きるとは。
『個人』になれるということだと思う。

ネイティブアメリカンとかは
死んだらみんな母なる大地に帰る
っていう考え方だった気がするし。

せっかく
魂ばかりで
他の魂との境界線がはっきりしない場所から

体という物質に
自分の分だけの魂を入れてくれて
他との境界線をもてる世界にこれたのに。

『個』になれる権利を
もらったのに。

他人と比べないと
自分がわからないなんて…


他人の決めたルールで生きるのは
他人の土俵で生きている。

勝手に自分から
他人に支配されている。

他人からダメな人間といわれたからって。

その他人の認識であって。
自分まで他人の認識に左右される必要はない。


自分で判断しなければ

自分を

自分で

決めなければ。



自分という存在は
あやふやになってしまう…

基準とは?

とりあえずは
自分の中にしか存在ない
ランクキングを
つくるために
比較している対象としての?
『基準』を書いたけど。


本来は

自分は何が好きで
何がきらいか。

何が大切で
何が必要か。
何が必要じゃないか。

いろいろ。

自分を作るために
判断するもの、こと。

だと思う。

人は毎日
なにかを見るとき
判断をしているから。


例えば

好きか嫌いかで
爬虫類どっちだろう?
と判断をしてみる。


でも、爬虫類はただ存在しているだけ。

人が好きか嫌いか
どっちか『勝手に』
判断しているだけ。


とりあえず
爬虫類という存在は
自分や誰かにとって
好きか嫌いかでも
判断されてる。

出会ったときとか
好きか嫌いか、も
もとに
どっちに判断によって
行動が違ってくる。


私は爬虫類を好きなものの中に入っている。

だから、蛇がかわいくみえる。

自分の考えで好きと決めている。


でも、他の人は
かわいくないかもしれない。
爬虫類が嫌いかもしれない。

でもそれはその人が
爬虫類を嫌いなだけだから。

うちの好き嫌いの考えには関係ない。

私が好きだからといって
その人に好きになってもらわなくても気にしない。

私の考えも
その人の好き嫌いの考えには関係ないから。


自分の『基準』がないから
世界が未知で不安なものと
想像を作り上げてしまうのじゃないかな。

わからないから。

判断する『基準』が
ないから。


比べるとするなら前の『自分』とだけしか意味があまりない気がする。

だって他人と自分なんて
違う人なのに。


自分が変わったか知るには。

同じだった場合だけ。

同じものだったら
比較したときの
前との『差』を
変化ととれる。


人間というカテゴリーで
自分を見るのは
大きすぎると思う。

全人口?約65億人
通りの人間がいるわけだし…

同じお腹から生まれても
一卵性じゃない限り
兄弟でもあまり似ないのに。

他人と違いを
比べたって
ジャンル違いで
比べてるようなものだし
『差』しかわからないよ。

この『差』に
惑わされる。

その『差』は
自分とは違う人間
ということは
わかる気がする。

他人『基準』じゃなく
自分『基準』で生きてるから
自分を楽しめるのかもしれないし。

他人『基準』の『楽しい』と
他人『基準』の『幸せ』
か。

自分『基準』の『楽しい』や
自分『基準』の『幸せ』


どっちが
自分が生きてくために
大切にしたほうがいいのか。

どっちが
自分がより楽しく
自分がより幸せになれる
のか。

私は自分を
自分の中の『基準』に
したい。

自己中のススメではないよ。

自分の『基準』は
他人にあてはめてはだめだから。

他人は他人自身の『基準』を持っているから。

自分を生きられるとか
自分に自信を持つことができるとかは
知らないけど。


私は他人だから
勝手にいいたいこと
だけを言える。

自分じゃない人の苦しみとか
悲しみ、楽しみとかは
表情とかを見て
話をきいて
自分の頭の中で
想像するくらいしかできない。

私はその人には
なれない。

変われない。

痛みも悲しみも
その人が感じてるなら
その人しか体験できない。

どの程度痛いのか?
どんなに苦しいのか?

いろいろ。

だから、自分しか
自分をわかってあげられない。

他人の人生に
私は責任を持てない。

だから、私のたわごとを
どうとるかは
読んだ人自身が決めること。

自分の人生にしか
責任を持てない。


自分は何が
いいたいのか
よくわからんないや…