私は長いこと、それらの前に立っていた。
小さい碗一つ、伏せ焼きの小さな器一つ、それに細首の瓶。
色は派手ではなく、空に近く、雨上がりの湖面のような青——
冷たくもなく、暖かくもなく、ただ静かに在る。
この色は、中国陶磁の中で「天青」と呼ばれる。
第一印象は「器物」ではなく、「空気」
重みを感じる器物もある。見た瞬間「歴史」「価値」「工芸」を連想させるもの。
しかし目の前のこれらの青磁は、まず感じるのが——空気だ。
釉薬は極めて薄く、光が表面に落ちるとき、強く反射されるのではなく、柔らかく吸収され、ゆっくりと吐き出される。
霧のようでもあり、水面のようでもある。
特にあの碗。
内側には細やかな貫入の紋様が広がっているが、少しも乱れておらず、むしろ時が自ら残した呼吸の痕跡のようだ。
ふと想像してしまう:
もし中に少し水を注いだら、水の境界さえもぼんやりしてしまうだろうか?
器物の「完成」は、完璧さにあるのではない
左側に逆さに置かれた小さな器、底には焼成時の痕が見える。
少しの瑕もない「完成品」ではなく、過程を誠実に残している。
現代生活では、私たちはあまりにも「完成度」を追い求めることに慣れている——
無垢、無欠、無駄なし。
しかし本当に飽きのこないものは、往々にしてそれほど「完璧」ではない。
青磁は特にそうだ。
釉薬の流れ、火加減の制御不能さ、貫入の自然な発生、
どれ一つとして複製できない。
だからこそ、それらは「製造」されたのではなく、「出会い」によってもたらされたのだ。
あの瓶は、時間の中に立つ一人の人間のようだ
右側の細首の瓶を、私は最も長く見つめていた。
誇張したラインはなく、その比例は非常に抑制されている。
瓶の胴はわずかに膨らみ、息を潜めているようでもあり、ゆっくりと息を吐いているようでもある。
そこに立つ様子は、「花を生けるための器物」というよりも、
むしろ一人の人間のようだ。
静かに立ち、急いで話そうとしない人。
早いリズムの日常では、私たちはこうした存在にめったに出会わない。
それは機能の説明も、用途の解釈も必要とせず、
ただそっと教えてくれる:
ゆっくりすることも、一つの選択なのだと。
なぜ私たちは青磁に心動かされるのか
青磁が人々の記憶に残るのは、「美しい」からではないと思う。
むしろ、時の流れに気づかせてくれるからだ。
効率の単位に切り分けられた時間ではなく、
沈殿し、待つことができ、失敗も許される時間。
こうした器物の前では、人は自然に声を低くし、足を遅くする。
決まりがあるからではなく、心が自然に静まるからだ。
おそらく、これこそが私たちが今もなお、これらの古い器物を必要とする理由だろう。
それらは生き方を教えるわけではない。
ただそっと思い出させてくれる——
生きることは、本来、もっとゆっくりしていいのだと。


