人付き合いをするときの判断基準って何ですか? | ゆりんごの森

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子育てしながら気付いたことなど書いてます。

 

子育てとはあんまり関係ないけれどこんな質問をされた。

 

 

私は自分が好きな人と出会うためにハッキリしていることはある。

 

それはこれから書くような性質を持っていない人間かどうか判断する部分。

 

 

しかしお陰で私は他人からナメられるような扱いをされたことはほとんどない。

 

 

中学生の時に、ろくな先生がいなかった。えこひいきしたり高飛車だったり自分の都合を押し付けたりする先生が多くてうんざりした。

 

クラスメートとやりとりしていて、人には本音と建て前があることを知った。波風を立てないために嘘を言うところがある人が多かった。うわべだけ取り繕っているように見えて不快だった。

 

 

高校生になっても同じような人ばかりだった。中学校や高校という狭い世界の中で、どの言葉があなたの本当のあなたの気持ちなのかが理解できないことが多くて混乱した。ほとんどの人が自分の話しかしないし、愚痴や不満か他人の噂しか話題がなかったことにうんざりした。日本人らしく可もなく不可もなく日常に何の疑問も持たずに生きていられるクラスメートが理解出来なかった。

 

 

 

高校のとき、理不尽なことで担任が生徒である友達をひどく責めたことがあった。私は激怒して職員室で他の先生がみている前でその担任がどれほど間違えているか理屈を述べた。担任はクリスチャンだったが私のことを生徒のくせに生意気だと断言した。私は生徒でも正しさを主張する権利はあると反論した。そしてそういう先生は1人だけじゃなかった。私はその都度授業中に先生の説明の仕方がどれだけ不親切かとか、教科書をそのまま板書しているだけのつまらない授業だとか文句をつけてなんとか先生自身が間違いを認めるように説明した。当たり前だが自分の非を認める先生は誰もいなかった。身近な大人を信用出来なくなった。

 

 

 

結婚して子どもが生まれて、母親という新しい人間関係が出来た。自分に危害を加えたりしない当たり障りないいい人も多かった。但し違和感があったのは出会う人たちは高校生のときにやりとりしてた感覚と変わらないことだった。20以上も年齢が離れているのに会話の感覚が女子高生と一緒というのが受け入れられなかった。ほとんどの人が思ったよりも大人じゃなかった。

 

 

 

PTAという大人の世界に入ったときも、去年と同じでいいというような古くて無機質な体質が理解し難いものだった。PTAほどこんなにも殺伐として不親切で時代が変わっても昔と同じことしか繰り返していないものに今まで出会ったことはない、とその時は思った。そしてそういう体質に何の疑問も持たずになんとなく過ごせている他の保護者にも違和感があった。こんな不親切なシステムじゃやってらんないとさらに良くしようと私が小さな革命を起こしたりすることにも反対する人がいた。私は反対されても変えた。

 

 

 

 

人間関係についてひととおりの経験をした。それをふまえて、人付き合いの基準。

 

 

自分を殺している人とはうまくやっていくことができない。

 

 

いつまでも同じ立ち居地にばかりいる人とも距離を置く。

 

人の噂話しかしない人とはあいさつもしたくない。

 

ありのままの自分が大事とかやりたいことしかやってないという自由な雰囲気の人を見ても、私の場合、自分がやりたいことと天が私にしてほしいことが別であるということを知ってるので、世界観が違うと思ってしまう。

 

これは二次(世界に対する諦め)的なものなのは自分でもわかってる。

 

でも私にはまだ、出来ない。

 

もちろん違って良いのだけど、私の思っていることはその人にとって不必要な情報でしかなさそうなのでそっと放置する。

 

 

結局、私は他人に対して理想が高いのだろう。もしかしたら高すぎるかもしれない。それが良いところでもあり欠点でもある。

 

 

自分よりも人生経験がある人で愚痴や不平不満を言わず他人と比べず人の悪い噂話を全くしない人とだけ付き合えると思う。

 

もちろん愚痴は悪いものではないし私にもあるので全く言わずにいるひとというより、愚痴を乗り越えられるような話し方とかが包括的に出来る人となら付き合いたいと思う。

 

 

 

それでも

 

 

調和の精神が強みとして少なからずあるのでコミュニティーの中にいても和して同ぜずという振る舞いを自然としてしまうので、人付き合いはわりと誰とでもそつなく出来る。

 

 

あと、顔が光ってる人(笑)